これに対して、広岡は毅然たる態度で「そんな必要はない」と考えている。たとえ高圧的で、一方的な上意下達であろうとも、監督の指示が絶対であり、選手に対していちいちお伺いを立てる必要はない。

 それこそが「広岡流指導術」であり、著書のタイトルを引用するのであれば、それこそが「海軍式野球」(編集部注/1979年発売の広岡達朗著『私の海軍式野球』)ということになるのかもしれない。

 そして、広岡のこの姿勢こそ、選手との間に亀裂を生じさせる一因となった。この点では、大矢の方が「大人」だった。

「でも、それが広岡監督のやり方で、あくまでも“監督と選手間の一線を画す”という狙いがあったのでしょう。それが監督のスタイルならば、選手はそれに従うだけです。だから、監督の言葉に影響を受けることなく、自分のできることを選択していく。当時、僕が心がけていたのは、そういうことでした」

「ジャイアンツコンプレックス」は
広岡にあったのか?

 チームを初の日本一に導いた翌1979年。広岡はシーズン途中での辞任を余儀なくされ、スワローズも最下位となった。その後、再び監督となった西武ライオンズでも、優勝後に退任する憂き目を見た。

「管理野球」と称された徹底的な指導により、厳しく訓練された精鋭たちによる組織を短期間で作り上げ、一定の成果を収める。

 しかし、厳格さによって統べられた組織は、すぐに息苦しさとともに選手たちの反発を招き、あっという間に瓦解のときを迎えてしまう。それは、スワローズでもライオンズでも同様であり、「広岡流指導術」の諸刃の剣でもあった。

 大矢へのインタビューで印象に残ったのが、こんなコメントだ。

「森さん(編集部注/読売ジャイアンツの正捕手だった森昌彦〔現・祇晶〕ヘッドコーチ)はとにかく、“ジャイアンツはたいしたことない”とか、“ジャイアンツは強くない”とおっしゃっていましたね。でもね、これは個人的な考えですけど、こうしたことをミーティングで発言する狙いはわかります。ただ、選手からすれば“ジャイアンツではこうだった”と、他球団の話ばかりされるのは、すごく気になるんです。