それゆえ「夢の万能細胞」といわれ、「早晩、難病が治る」といった過剰な期待が広がり、意図せぬ誤解をも招くことになったのですね。話を現在に戻して、まず伺いたいのは、京都大学iPS細胞研究所(CiRA(サイラ))とは別に、iPS細胞研究財団(以下財団)を設立されたのには、どのような理由があるのですか。また研究所と財団では役割が異なると拝察します。

 2022年まで私が所長を務め、髙橋淳教授にバトンタッチしたCiRAと、私が現在理事長を務めるiPS財団は、車の両輪のように密接に連携しながらも、明確に異なる役割と設立の背景を持っています。

 まず、財団設立の最大の理由は、iPS細胞の製造・管理に携わる専門職員の「雇用の安定化」と、大学という組織では難しい「実用化への橋渡し」を実現するためです。

 CiRAで進めてきた「iPS細胞ストック事業」は、臨床グレード、つまり患者さんに移植できる品質の細胞を製造・管理するプロジェクトです。

 この業務には、高度に空調管理された無菌室で、防護服を着用し、3人一組で手順を確認しながら製造作業を行うなど、極めて高度な技術と忍耐力が求められます。実際、研究用のiPS細胞の作製と比較して、臨床用の作製は100倍大変であることが、先の事業を通してわかりました。

 iPS細胞ストック事業には約100人のスタッフが携わっていましたが、CiRAは国立大学法人の一部であるため、教員や事務職員以外の技術職員や専門職員を、5年、10年といったプロジェクト期間を超えて定年まで正規雇用することが制度上難しかった。彼らは日本の医療の未来を担う重要な人材であり、彼らに安定した雇用環境を提供することが、私の所長時代における最大の課題の一つでした。

 また、国立大学の組織のままでは、企業に対して営利目的を含む商用利用のためにiPS細胞を提供したり、迅速な意思決定を下したりするうえで制約がありました。

 そこで、CiRAから独立した組織として「公益財団法人」を設立することで、職員の正規雇用を可能にし、かつ公益性を保ちながらスムーズに企業への橋渡しができる体制を整えました。

 両者の役割の違いについてですが、CiRAの役割は、主に「基礎研究」と「教育」です。iPS細胞の新しい作製方法や、病気のメカニズム解明、創薬研究、そして動物実験などの前臨床研究を行い、次世代の研究者を育てる場です。科学的なシーズ(種)を創出することが任務です。

 一方、財団の役割は、大学の研究成果と産業界(製薬企業など)の間にある、なかなか超えられない「死の谷」に橋をかけることです。具体的には、以下の業務をCiRAから引き継ぎました。

●iPS細胞の作製と品質管理:臨床で使用可能な高品質なiPS細胞を作製する。
●ストックの保管と提供:製造したiPS細胞を管理し、研究機関や企業へリーズナブルな価格で提供する。
●実用化への橋渡し:企業とのライセンス契約や交渉、共同研究の調整を図り、技術を社会に届けるサポートを提供する。

 つまり、CiRAが「0から1を生み出す基礎研究」を担い、iPS財団が「1を10や100にして、患者さんに届ける実用化・産業化」を担うという役割分担をしています。この両者が一体となって連携することで、研究成果を一日も早く医療現場に届けることを使命としています。

 iPS財団では、主に2つのプロジェクトが進行していると聞いています。先ほどのご説明にもあったように、第1は、健康な提供者(ドナー)から作製したiPS細胞を、あらかじめ大量にストックし、必要な患者に迅速に提供することを目的とした他人由来のiPS細胞を低コスト・高品質で作製する「iPS細胞ストックプロジェクト」であり、2番目は、患者さん自身の細胞から作製するiPS細胞(=自家iPS細胞)を低コスト・高品質で製造し、再生医療などの臨床応用につなげることを目指す「my iPS細胞(R)プロジェクト」です。それぞれの現状について教えてください。

 前者の「iPS細胞ストックプロジェクト」(他人由来)は、あらかじめ多くの日本人に適合しやすい免疫の型(HLAホモ接合体)を持っている健康なドナーの方からiPS細胞を作製し、備蓄しておくものです。

 現状、日本人の免疫の型の中で頻度の高い上位4種類の型を持つドナー7人から作製した、計27株のiPS細胞ストックを提供しています。これだけで日本人の約40%の方に対して、拒絶反応が起こりにくい細胞を提供できる体制が整っています。

 すでにこのiPS細胞ストックは、100以上の研究機関や企業に提供されており、日本国内では10以上の臨床試験(治験や臨床研究)に使用されています。具体的には、加齢黄斑変性などの目の病気、パーキンソン病、心不全、脊髄損傷、血小板減少症などの治療開発において、実際にiPS細胞ストック由来の分化細胞が患者さんに移植され、一定の安全性と有効性が示されつつあります。

 さらに現在は、ゲノム編集技術を用いて拒絶反応に関わる遺伝子(ヒト白血球抗原)を改変し、より多くの人に拒絶反応が少なく移植できる「ゲノム編集iPS細胞ストック」も提供しております。もう一つの「my iPS細胞プロジェクト」(自家由来)は「自分の細胞で自分を治す」という、iPS細胞本来の理想を実現するために製造コストを抑えることを目指したプロジェクトです。自分の血液などからiPS細胞をつくるため、拒絶反応のリスクが極めて低く、免疫抑制剤の使用を回避または最小限にできるという大きなメリットがあります。

 しかし、現状の課題は「コスト」と「時間」です。従来の手作業による製造方法では、一人の患者さんのiPS細胞をつくるのに数カ月の期間と数千万円の費用がかかってしまいます。そこで私たちは、製造コストを100万円程度、製造期間を1カ月程度に短縮することを目指しています。

 そのために新たな拠点として、大阪の中之島に2025年4月、「Yanai my iPS製作所」を開設しました。ここでは、市販の閉鎖系自動培養装置などを導入し、人の手を介さずにiPS細胞を自動製造する技術開発に取り組んでいます。現在は、この自動化技術を確立し、安全かつ高品質な「my iPS細胞」を、将来には研究機関や企業を対象に広く提供できる体制の実現を目指しています。