市内の4校をシャッフルして
新制の長崎東高と長崎西高に統合

 江戸時代に蘭学の窓口になった長崎。その長崎市には1884年に最初の公立旧制中学である県立長崎中学校ができた。

 だが、原子爆弾による被爆があった3年後、1948年の学制改革で、長崎市内にある男子中学2校(県立長崎中学と県立瓊浦=けいほ=中学)と高女2校(県立長崎高等女学校と市立高等女学校)の4校はシャッフルされ、新制の長崎東、長崎西高校に統合された。

「旧制一中」、あるいは「一中」を名乗らなくても県庁所在地に最初に設置された旧制中学が、新制高校になっても多くがその都道府県で一番の名門伝統高校になっている。例えば、大分県は旧制県立大分中学→新制大分上野丘高校、東京都は旧制府立一中→都立日比谷高校、といった具合だ。それに倣えば、旧制長崎中学は、新制長崎高校になってしかるべきだった。

 長崎県・長崎市は、様相を異にしている。新制高校発足時に、旧制時代からの伝統を雲散させてしまったのだ。中等教育学校制度の徹底的な改革が断行された、ともいえるのだ。

 戦後の学制改革については、どの都道府県でもGHQ(連合国軍総司令部)の意向が、相当に反映されたといわれる。男女共学制、小学区制、総合選抜制によって新しい高校制度に衣替えさせるというのが、GHQの方針だった。だが、都道府県ごとにGHQの方針がどの程度、貫徹されたかは不明だ。

 もっともらしい説もある――GHQの教育担当者(米国人)は、まず全国の西の県から監視していった。長崎県は最初の方であり、かつ原爆被爆地だったから、厳しく指導・勧告され改革が徹底した。その後、担当者も変わり東日本はチェックが緩和された。埼玉・群馬・栃木県で男女別学の県立高校が今なお残っているのは、このためである――と。

 ただ、長崎西高校と長崎東高校は、2校とも旧制長崎中・旧制瓊浦中の流れを引き継ぐ高校であることは、間違いない。もっとも同窓会は両校とも、旧制4中学の同窓会を継承していない、という事実を記しておこう。