その間、必死に見ようとするのは、原子炉の圧力です。しかし、通常であれば計器類の数字によって示される圧力もまた、電源喪失によって見えなくなる。圧力上昇がもたらす帰結への想像力は、津波による物理的な破壊以上に、広大な国土への壊滅的な影響に及びます。
坂元:何重もの「見えない恐怖」、これは観客にも染み込んでいる想像力でしょう。「みんな(所員)被爆して、一巻の終わりだ」と、伊崎当直長が呟くのですが、この時点で彼らは死に直面しているわけです。そのなかでどうするのか、何をするのか。「一巻の終わり」の先が想像できるからこそ、現場のプロフェッショナルとしては「責任」をもっとも重大に感じるだろうと思います。
「責任を取る」という言葉はセリフとしては、東都電力本社(本店)の緊急時災害対策本部で対応していた小野寺秀樹常務(篠井英介)が三号機の対応を迫るときの「こっちで責任は取るから」と、五・六号機当直長・前田拓実(吉岡秀隆)が三号機爆発の後に「二号の責任、最後まで取んないと」の2回しか出てこないのですけど。
井上:あのギリギリの状況下での「責任を取る」の意味は、東京の本店と、福島の現場とではまったく違いますよね。
現場の人間の気持ちを
我々は完全には理解できない
坂元:当時の映画評を見ると、「戦時中を思わせる」「実在の人物がいるのに、事実と違う物語化」など批判も多かったようです。たしかに「おまえ、それでもプラント・エンジニアか!」というセリフなど非常に軍国主義的に聞こえますが(「それでも帝国軍人か!」「それでも日本国民か!」)、プロフェッショナルとしてはどうだろうか。
暴走する原子炉を制御するのは自分たちにしかできないことであり、責任・責務がある。しかも大勢の命がかかっている状況で、現場からの離脱を考える者がいたら、それはプロとして許されないことだぞと、口をついてしまうのではないかなとわたしは思うんです。
そして、「決死隊」という言葉も印象的に使われます。







