そこには、江戸時代に生まれた「復古神道」の考え方が影響していた。それを唱えたのは、日本の古典文学を研究し、そこに仏教、あるいは儒教渡来以前の日本人の精神性を見出そうとした国学者たちである。本居宣長や平田篤胤になるが、その門人たちは、仏教を廃し、古来の日本精神に戻る必要があると説くようになったのである。

 江戸幕府は、慶應3(1867)年10月、大政を奉還し、それによって明治新政府が誕生する。明治新政府は、近代国家としての道を歩むことになるが、当初の段階では、平田篤胤やその弟子である大国隆正の影響を強く受けた国学者や神道家が参画し、祭政一致の国家建設がめざされた。

 そのため、古代の律令制で規定された神祇官という役所を復興し、それを行政機関にあたる太政官の上におく体制が築かれた。そうした中で、神道の世界から仏教を排斥しようとする動きが生まれたのである。

寺院の土地を没収し
深刻なダメージを与えた上知令

 慶應4(1868)年3月13日には、神主が僧服を身にまとったり、仏式の用具を使用したりすることを禁じる最初の「神仏判然令」が出された。同月17日には、新たに誕生した神祇事務局によって、諸国の神社に対して、「別当」や「社僧」などと称し、僧侶の姿で神社に仕えている人間は還俗させるようにとの命令が下る。俗人にしろというのだ。

 さらに同月28日には、仏像などを祀っている神社に対して、それを取り除くことが命じられた。神社のなかには、権現や牛頭天王など、神仏習合(編集部注/仏教と神道が一体の関係におかれること)の産物で、神道の立場からすれば純粋ではない存在を祀るところが少なくなかったからである。それが一掃されたのだ。権現は神でもあり、仏でもある存在で、牛頭天王は牛の頭をいただき厄病をもたらすとともに、それを抑える力を持つ存在だった。

 これだけなら、神社からそこに仕える僧侶が消え、仏教関係の信仰対象や仏具が取り除かれるだけで済むはずである。ところが、なかには過激な行動をとる神道家もいて、彼らは明治新政府の威光を盾に破壊的な行為に及んだ。