両者には異なる役割が与えられ、神道が主に生きている人間の通過儀礼や地域を統合する祭りの実施といったことを担い、仏教は葬式や年忌法要など死者の供養を担うようになっていた。この関係は、明治になっても変わることがなかった。

 そうである以上、誰もが神道と仏教の双方にかかわり、神社にも行けば、寺院も訪れた。片方をとくに強く信仰するような人間でなければ、依然として神仏習合の信仰世界に生きていた。浄土真宗では、建前として「神祇不拝」を説き、神道の信仰を否定したが、その信者である門徒がそのままそれに従ったわけではなかった。

 江戸時代が長く続いたこともあり、仏教の信仰は国民全体に浸透していた。とくに「先祖崇拝」の観念は強く、それぞれの家を作り上げ、それを守ってきた先祖は崇拝の対象になった。

『大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』書影大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』(島田裕巳、扶桑社)

 農家であれば、先祖は田畑を開拓し、それを耕作し続けてきたわけで、子孫はその恩恵を被っていた。そうした先祖に対して感謝の気持ちを持ち、供養を続けることは子孫の義務としてとらえられ、受け入れられた。

 先祖は各家で「仏」として祀られた。だからこそ仏壇に位牌(いはい)として祀られたのである。仏は本来悟りを開いた存在であるわけだが、日本では死者が仏として信仰の対象になった。これは日本において起こった重大な変化になるが、仏教を定着させる上で決定的に重要なものであった。

 戦争が終わるまで、近代の日本社会では「家督相続」の制度がとられていた。家は生産活動の拠点であり、家督を継いだ戸主を中心に一家で生産にあたることが、その生活を支えた。戸主が年老いれば、家督を子供に譲り、隠居の身分となった。隠居は、先祖の位牌を祀った仏壇のある仏間で暮らし、やがては先祖の仲間入りを果たした。

 このように、国民の間に浸透した仏教の信仰には、かなり根強いものがあり、そのかかわり方は現代にまで受け継がれているのである。