明治以前の時代においては、神社には神宮寺が設けられ、その境内に仏教関係の堂宇が立ち並んでいるのは当たり前のことだった。あるいは、神社を僧侶が管理し、神前で読経することも日常的に行われていた。たとえば、鎌倉の鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺だったわけで、境内には仏塔まで建てられていた。

 神仏分離は徹底して行われたため、今日では、そうした神仏習合の時代のあり方を目にすることが難しくなっている。今、鶴岡八幡宮を参拝に訪れても、寺院であった痕跡を見出すことはできない。

 今や世界的な観光地の1つになっている浅草寺の場合も、もともとは隣接する浅草神社と一体の関係にあった。なにしろ、浅草神社の祭神は、浅草寺の本尊である観音菩薩を川から引き上げた漁師の兄弟などだからである。戦後、宗教法人法が制定され、両者が別々の宗教法人として認証されたことも、その距離を広げることに結びついた。

生活に根づく仏教の信仰心を
捨てることはできなかった

 ただ、個々の日本人の信仰ということになると、そのあり方が明治時代になって根本から改められてしまったというわけではなかった。

 明治新政府が神道を重視したものの、一般の国民は仏教に対する信仰を捨てたわけではないからである。たとえば、当初の段階で政府は、火葬が仏教の信仰に由来するものであるとし、それを禁じ、神道式の葬式である「神葬祭」を奨励した。

 しかし、都市で土葬をするにも適当な土地を見出すことは難しく、火葬の禁止はすぐに撤回された。江戸時代に寺請制度が設けられた結果、すでに仏教式の葬式が普及しており、神葬祭への転換もまったく進まなかった。

 政府が神道を宗教の枠から外したのは、それによって、神道の祭祀(さいし)を国民に強制することができたからである。仏教やキリスト教といった宗教については内務省の宗教局が管轄し、神道については同じく内務省でも神社局が管轄した。

日本人の先祖を思う気持ちが
仏教をいまも続く宗教たらしめた

 国民の間では、神道と仏教の「棲み分け」が行われてきた。