“瞬間的に生まれるやりがい”を記憶にとどめる

 仕事のやりがいというものは、とても脆いものだ。昨日までは感じていたやりがいが、朝起きてみたら幻のように消えていることもある。やりがいは瞬間的にしか現れないし、微妙なバランスの上に成り立っているので、とても脆いものなのだと思う。仕事のやりがいは、その場を構成するさまざまな要素、例えば、他者との関係、活動の内容、物理的な空間、そして、そこに流れる文化などが重なり合ったときに立ち上がってくる「現象」なのかもしれない。「やりがいのある仕事」に取り組んでいれば、常に仕事のやりがいを感じられる、というものではないのである。

 それゆえ、例えば、「こんなにがんばっているのに周囲が評価してくれない」と感じるとき、「他人の評価なんて関係ない」と思える心の強さがある場合は何でもないが、心が疲れているとそうはいかない。うまくいかないことが重なると、「がんばっても仕方がない」「自分がいなくても誰も困らない」などとネガティブな思考の循環に陥り、仕事のやりがいを見失ってしまうこともある。

 私の場合、幸いなことに、仕事をしていて「いいこともあった」という記憶が繰り返し復活し、私のモチベーションを支えてきた。苦しいことがあっても、「いま、我慢すれば、そのうち何とかなる」と思えてきた。そう思えてきたのは、周囲の支えがあってこそなのだと思う。沈んでいたら励ましてくれる声があり、仕事が手につかないときには黙ってカバーしてくれる人がいる。そうした関わりの中で、自分がこの場にいてよいのだと思い直すことができる。よい組織にはこのようなリカバリーのための支えがある。私はよい組織に恵まれてきたのだろう。

 思えば、私たちはいつの間にか、「やりがい」という言葉に追い詰められているのかもしれない。「やりがいのある仕事」に就かなければ幸せになれない、あるいは、成果を出して周囲に認められることだけが「やりがい」である、という強迫観念のようなものだ。しかし、そうした「自分一人の能力や評価」に依存したやりがいは、状況がひとたび変われば、脆くも崩れ去ってしまう。

 「やりがいのある仕事」にありつくことと、仕事のやりがいを感じることとは、まったく別物なのだ。もちろん、私は大学教員として取り組んでいる仕事に肯定的な意味づけをしている。仕事の内容に対する肯定的な意味づけは、仕事のやりがいを感じるための必要条件にはなるだろう。しかし、それだけで仕事のやりがいを感じながら働けるわけではない。取り組んでいる仕事をめぐる関係性の中で、自分自身が歓迎され、支えられ、成長していると実感できることが、仕事のやりがいを感じることのできる重要な条件なのだ。

 仕事のやりがいというものは、最初からそこに備わっている性質のようなものではない。関わりの中で少しずつ立ち上がり、さまざまな要素の間でかろうじて保たれているものなのかもしれない。「やりがいのある仕事」を探すことも大切だが、それよりも、やりがいが生まれてくるような関わり方や時間の重なりの中に身を置くこと。振り返ってみると、私にとっての仕事は、そのようなものだったように思う。