『信長公記』が伝える、飢餓地獄と化した城内

 鳥取城には、兵士だけでなく多くの農民も避難していました。そのため、城内の兵糧は急速に尽きていきます。

 一次史料である『信長公記』によれば、最初のうちは城兵たちが柵の近くまで出てきて、木の葉や雑草、稲の切り株などを採集して食べていたと記されています。

 しかしそれすら採り尽くすと、今度は牛や馬を殺して食べ始めました。当時の牛は農耕に欠かせない貴重な財産であり、馬は武士にとって重要な軍事資産です。それでも食べざるを得ないほど、鳥取城内は追い詰められていたのでした。

 さらに『信長公記』には、餓鬼のように痩せ細った男女が柵際まで来て、「助けてくれ」「出してくれ」と泣き叫んだ様子も記されています。秀吉軍の兵士たちも、その惨状に同情したといいますが、敵である以上、出てきた者は鉄砲で撃たれました。

 そして『信長公記』には、城内の連中が「殺された遺体に群がり、手に手に持った刃物で手足をばらし、肉をはがした」と書かれており、さらには「五体の中でも特に頭は味が良いと見えて、一つの頭を数人で奪い合い、取ったものは首を抱えて逃げていった」とも書かれています。

 鳥取城で実際に人肉が食べられていたのかどうかについては、現在でも研究者の間で意見が分かれています。しかし少なくとも『信長公記』によれば、かなり凄惨な状況であったことがわかります。

「無調法かもしれぬが」経家、最期の言葉

 そして天正9年10月25日、城番の吉川経家は、ついに決断を下します。

 自らが切腹する代わりに、城兵や住民の命を助けてほしいと秀吉へ申し出たのです。

 秀吉は経家の才能を惜しみ、織田方への帰順を勧めたとも伝えられています。しかし経家はこれを拒み、武士としての潔い最期を選びました。

 経家の小姓だった山県長茂の記録によれば、経家は身を清め、愛用の衣服を着て主従の別れの杯を交わした後、「内々に稽古したものでもないから、無調法であろうかもしれぬ」と笑いながら語り、早朝、切腹したとされています。享年35でした。