叱らない上司は、優しいのではない。逃げているのだ。稲盛が言う「卑怯」とは、果たすべき責任から逃げることである。そして逃げる上司のもとで、部下はその逃げを学習し、職場は静かに緩んでいく。
上司が逃げれば
「部下は皆それに倣って」逃げる
稲盛が「部下は皆それに倣って」と書いたとき、彼が見ていたのは、まさにこの伝播(でんぱ)である。上司が困難をたださず逃げれば、部下もまたただされることを免れ、逃げてよいのだと学ぶ。一人の逃避が、職場全体の逃避を呼び込む。
逆に言えば、上司がきちんとただせば、その姿勢もまた伝播(でんぱ)する。過ちには向き合うものだ、という規範が職場に根を張る。
ただすという一つの行為は、目の前の問題を正すだけではない。組織全体に、逃げない文化を植えつける行為なのだ。咎(とが)めない上司は、その逆をやっている。緩みを許すという無言のメッセージを、毎日まき散らしている。
だからこそ、人事の急所はこの一点に絞られる。誰を持ち場に据えるかが、組織が腐るか保つかを決める。能力の高さでも、人当たりの良さでもない。問われるのは、ただすべきときにただせるか、逃げずに踏みとどまれるか、である。優れた経営者が候補者を見るとき、真っ先にここを確かめるのは、勘ではない。組織という生き物の力学を、肌で知っているからだ。
構図はこうだ。部下の問題行動が先に立ち、それを咎(とが)めないのが逃げ腰の上司である。上司が厳しいから問題が起きるのではなく、部下の問題行動が上司の厳しい対応につながっている場合があるのだ。
ならば、上司の取るべき道はひとつしかない。萎縮せず、間違いを間違いとしてただすことである。
叱責(しっせき)を恐れて口をつぐむことは、部下のためでも組織のためでもない。それは、ただすべき過ちを放置し、緩みを腐敗へと育てる行為にほかならない。優しさを装った逃避ほど、組織にとって高くつくものはない。
稲盛も、「部下を叱らない上司は、『優しい上司』として一時的に好まれても、長い目で見れば、そうした無責任な上司は、決して真の信頼を部下から得られることはないでしょう」と語っている。(稲盛和夫著『誰にも負けない努力 仕事を伸ばすリーダーシップ』(PHP)、初出:2008年1月 京セラ社内報『敬天愛人』巻頭言)
稲盛和夫が30年以上前に見抜いていたものを、世界中の研究者が3万人分のデータでようやく追いかけている。部下を持たせてはいけない人がいる。それは厳しい人間ではない。ただすべきをたださず、逃げる人間である。







