ジャーナリズム不在のニュースが
ネットに溢れることの悪影響とは?

 では、理念としての「ジャーナリズム」とは何なのでしょうか? この問いに対する考察・論考はビル・コヴァッチ著『ジャーナリズムの原則』(日本経済評論社)という優れた書籍があるので、ニュースに携わる職業人は、ぜひ、この本を読んでいただきたいのですが、その中にある一文を拾うと、こういうことです。

「ジャーナリズムのそもそもの目的は、市民の自由、そして自治に必要な情報を市民に提供すること」であり、「この定義は、時代を超えて変わることがない」と強調されています。

 これが、アメリカでジャーナリストの教科書としても使われる一人者が定義するニュースです。この定義に従うと、犬や猫、お姉さんたちの写真を紹介する記事のほか、政治家が一方的に展開する政治的宣伝(=プロパガンダ)や企業の商業的宣伝は、まったくもってニュースの範疇には入らないのです。情報の転載や政治的・商業的な宣伝を中心とした記事は、ニュースとして定義されるのではなく、純粋な「コミュニケーション」として理解されるべきであって、コミュニケーションそのものであればこそ、デマやゴシップ、誹謗中傷、下ネタ、パクリが自然に含まれるのでしょう。しかし、ジャーナリズムに基づかない、純粋なコミュニケーションが、“ニュース”として認知され、広く生産・流通しているのが日本のネットメディアの現状です。

 先の定義に見たように、ジャーナリズムに基づいたニュースとは、つまるところ民主主義を成立させるための基盤のようなものです。昨今、メディアに対する政治への介入が大きく取りざたされています。自民党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」で報道機関に圧力をかけようとした問題や、安倍政権がメディアを操作しているとされる問題が大きく騒がれているのは、私たちが寄って立つ民主主義の成立を危うくしかねないという理由からなのです(これが圧力やメディア操作ではないという方は、あなたが支持しない政党が同じことをしたらどう感じるか、想像するといいでしょう)。

 問題は、コミュニケーションとして捉えられるべき“ニュース”やステマまがいの“ニュース”が、影響あるニュースサイトやニュースアプリに「ニュースの顔」をしながら紛れ込み、ページビュー至上主義にみられる商業主義とあいまって、民主主義を成立・維持させるという、本来的な意味でのニュースの存在をとことんまで薄めにかかっていることにあります。