その日のうちに大平さんがその会談を「車中会談」と名付けました。私は車中会談の内容を忠実に書きました。いまみなさんに説明したことに間違いはありません。一言も私は付け加えていない。もしも私が適当に証言を付け加えても、誰も反対者は出てこないでしょう。もう生き残っている証人は私だけだから。しかし、事実を両国民に伝えるのは、人間として、通訳としての最低の義務です。それは宣言できます。

参謀役を果たして叱られる

――万里の長城から戻って、その夜には第3回の大平・姫鵬飛会談が行われた。日中共同声明の最後のつめが行われたのだ。会談は午後10時に始まったが、時計の針は12時を回り翌28日に突入していた。

 翌日(29日)の10時には、共同声明の調印式です。ほかの文案は全部まとまっているのに、ここだけが問題として残りました。印刷工場の人も心配する。印刷工場の工員が隣で待っていて、結論が出たらすぐ工場に持ち帰り印刷をして、次の日の10時の調印式に間に合わせないといけないからです。

 すでに午前2時を回っていましたが、はっきり覚えています。大平さんがこのくらいの紙を取り出して「姫鵬飛さん、これは我が方の最終案です。これ以上日本は譲歩出来ない。どうですか」と。「日本国政府はかつて日本が戦争を通じて中国人民にもたらした大きな災いに対して、責任を痛感し、深く反省する―――検討してください」。

 姫さんは慎重な方で「その紙をください」と。日本側の通訳が正しかったかどうかが問題ですが、一言も間違ってない。私は姫さんに「その通りです」と言いました。大平さんにここまで言われた以上、姫さんも応えなきゃいけない。しかし、なかなか応えない。その間だいたい3分くらい、これは難しい3分間でした。

 私はそのとき周総理による、通訳に対する一つの指示を思い出しました。通訳は、必要な時には参謀の役も務めよ、と。私も参謀の役を果たそうと思って小さい声で「姫部長、私が見たところ、これは認めてもいいでのはないでしょうか」と言いました。

 本人は参謀の役割を果たすべく自分に誇りを持って言ったつもりだったのですが、姫さんは「黙れ」と言って、力を入れて私の腿をつねりました。それから姫さんはこう発言をしました。「一つ提案がございます。10分間休憩に入りましょう。その後回答しますから」。大平さんは「賛成です」と応えました。

 私たちは迎賓館の18号館1階の会議室で交渉をやっていました。田中さんは同じ建物の2階にいらっしゃった。後で分かったことですが、田中さんは共同声明の書き方はすべて大平さんに任せていたそうです。大平さんには決定する権利がある。それでも大平さんはこの案はまだ田中さんに見せていないのでと2階に行く。これを見て大平さんは誠実だなと感心しました。