──政治部の記者が読んでいないというのは致命的ですね。

 もちろん、勘のいい人は読んでくださっています。応援もしていただきました。でも、大半の政治部の記者からすると僕の書いたことなんて馬鹿らしくて相手にしていられないのでしょう。彼らにとっては「政局」なるものが最重要だから。「政局」なるものを追いかけるには、「誰が誰といつ会った」「誰が誰と喧嘩した」という話が重要なのでしょう。でも、本来、メディアは言論機関として政治と対峙しなければなりません。そうしないと民主主義は成立しないはずなので。

 たとえばアメリカでは、メディアは政治家のセックススキャンダルもマネースキャンダルもやるけれど、政治家が変なことを言ったら、メディアがきちんと検証し、「ダメだ」と書く。「言説を言説として言説で批判する」習慣がまだ辛うじて残っている。ところが日本は、ロッキード事件以来、政治家のスキャンダルと言えばお金とセックスの問題ばかりになった。そして、逆にお金とセックス問題以外なら、よほどの失言でもない限り、政治家の言説を批判しなくなった。

 その点、日本会議は宗教的な人が多いから、皆さん、真面目で清潔なんですよ。お金とセックスの問題はあまり出てこない。だから批判の対象になりにくい。

 日本のメディアが真正面から政治家や政治勢力の言説と戦うことを、過去40年間やらな過ぎたことに問題があると思いますね。政治記事がスキャンダル中心に変わったのは、70年代に立花隆氏が「田中角栄研究」で所謂「田中金脈問題」を書いたのがきっかけだったのだと思います。あれは重要な仕事だっただろうけども、その後、メディアは政治家や政治勢力の言論を相手にしなくなった。単にスキャンダルを追いかけるだけの存在に成り下がり、民主主義の番人であることを、自ら辞めてしまった。

 その意味では、今回の僕の本がもし40年後に、「政治をスキャンダルだけでなく言論として批評し、政治運動は政治運動として直視するという風潮に変えたのはあの本だった」と評価を受けるなら、こんなうれしいことはありません。

(聞き手/「ダイヤモンド・オンライン」編集長 深澤 献)