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坪井賢一
第5回
本田美奈子さんは初演版「ミス・サイゴン」上演中、ゴールデンアロー賞演劇新人賞を受賞し、初めてミュージカル女優として評価されることになった。アイドル時代の盛名が復活したそのときに出会ったのが「ミス・サイゴン」の訳詞者である岩谷時子さんだ。

第4回
アイドルだった本田美奈子さんがミュージカルの世界へ入ったのは何がきっかけだったのか。「ミス・サイゴン」のオーディションへ引き入れた東宝プロデューサー酒井喜一郎さんと、現場にいたプロデューサー古川清さんが語る「ミュージカル・スター本田美奈子誕生記」。

第3回
1992年5月5日に「ミス・サイゴン」の本公演が帝国劇場で始まると、すぐに全国紙が批評を載せている。このとき、本田美奈子さんへの酷評ぶりに驚いた記憶が残っていたので、当時の記事を探してみると、「アイドル歌手」の彼女への先入観の強さが感じられた。

第2回
ちょうど20年前に帝国劇場で本田美奈子さんの歌(「ミス・サイゴン」)を初めて聞いたとき、感動ではなく驚愕し、狼狽した。どう表現していいかわからなかったのだが、つい先日、図書館で70年代の本を読んでいて当時の自分の狼狽を理解できた。

第1回
清冽な歌唱の記録を残して本田美奈子.さんが亡くなったのは2005年11月6日である。38歳だった。日本のポピュラー音楽、そして音楽ビジネスの100年をたどるために資料をたどっていたとき、彼女の歌手人生の航跡に出会った。

第24回
4月1日から「食品中の放射性物質」の新規制値(基準値)が決定され、ぐっと厳しくなった。しかし、何がどれほど厳しくなったのか、わかったようでいてよくわからない。そこで、本記事では規制値が具体的にどう変わったのか説明したい。

第2回
昨年12月環境省は、放射能汚染の状況を重点的に調査測定すべき地域を「汚染状況重点調査地域」とし、首都圏を含む8県93市町村を指定した。では指定された自治体では今、どのような除染対策が取られているのだろうか。

最終回
1913年に「経済雑誌ダイヤモンド」を創刊し、ダイヤモンド社の社長をつとめた石山賢吉だったが、そこへ至る過程には、現在にも歴史を残す日刊紙や人物との深い関係性があった。最終回の今回は、「経済雑誌ダイヤモンド」創刊前後の文化史をひもときたい。

第44回
戦時下の統制で用紙も不足し、東京からの疎開がすすんで読者も激減した1944年秋、もっともページ数の少ない「ダイヤモンド」があった。本文16ページ立てで、厚さは1ミリもない。この薄さに当時の切迫した経済状況や資材不足が現れている。

第43回
高橋是清は4度目の蔵相に就任した日からわずか44日間で、1927年の金融恐慌を片付け、さっさと辞任した。実際は4月22日から3日間、銀行を休業させ、日銀による無制限融資を発表した時点で沈静化している。現在の金融当局並みの早業だった。

第42回
高橋是清は2度、窮地の日本経済を救った。1931年12月、高橋は蔵相に就任すると、金本位制からの再離脱を発表。財政拡張政策やインフレ政策によって、昭和恐慌を収束させた。高橋が行ったケインズ以前のケインズ政策を後世の研究者は高く評価している。

第41回
高橋是清が昭和恐慌によって窮地に追い込まれた日本経済を救う直前、大蔵大臣に就いていたのが井上準之助だ。インフレ政策を導入した高橋とは対照的に、井上はリストラを伴うデフレ政策によって日本経済を立て直そうとしていた。

第40回
高橋是清は、1921年11月から22年6月まで首相兼蔵相、立憲政友会総裁も経験している超大物政治家だった。1920年代末の金融恐慌と昭和恐慌からの素早い脱出を図り、成功させている高橋を当時、周囲はどう評価していたのだろうか。

第39回
「ダイヤモンド」1936年1月1日号で座談会「議会解散と政局」が掲載された。この当時の岡田啓介内閣は、民政党主体の挙国一致内閣ではあるものの、野党的な政友会が衆議院の多数を占め、衆参がねじれる現在の民主党政権のような状態だった。

第38回
「ダイヤモンド」1937年3月1日号では、有力政治家を招いた大座談会が掲載された。当時の内閣は陸軍出身の林銑十郎首相のもと、日本興業銀行総裁・結城豊太郎が大蔵大臣に就任するなど、金融資本家と軍部の結びつきが話題になっていた。

第37回
「ダイヤモンド」は1937年3月1日号で有力政治家を招いた大座談会を掲載している。その座談会に出席していた芦田均は、自由主義的資本主義からの「現状打破」を訴える代議士や革新官僚への不満を明らかにした。

第36回
近衛文麿は、3度の組閣により、挙国一致のまったく新しい国家体制を目指した。しかし、第一次近衛内閣成立の直前には、軍部が圧倒的な力を誇り、組閣・辞職まで軍部の意のままになるという状況に至っていた。

第35回
近衛文麿は、日本の死命を決する段階で3回組閣をした人物である。1930年代後半には、右翼から左翼まで巻き込んで、近衛を首班とする新しい政党をつくり、挙国一致のまったく新しい国家体制をつくろうという運動まで起きた。

第34回
1951年の日本社会党分裂後、左派社会党政策審議会長、そして書記長となった和田博雄は、もともと企画院の革新官僚で、自由党の閣僚だった。それにもかかわらず、社会党の大幹部へと転身したのは、一体なぜだったのか。

第33回
大正中期から「ダイヤモンド」は、臨時増刊号として、政財界の多くの人物評を掲載した「財界人物」を発行している。その書き手の1人が、幸徳秋水らと「近代思想」を舞台に社会主義者として活躍し、日本社会党の衆議院議員も務めた荒畑寒村だ。
