
坪井賢一
第13回
本田美奈子さんは「ミス・サイゴン」の成功後、ミュージカル出演の要請が押し寄せていたのだが、本田さんは「レ・ミゼラブル」10周年記念公演を選択した。島田歌穂さんとダブルキャストだったが、彼女は島田さんと異なる独特の歌唱をし、人々を魅了した。

第12回
作詞作曲に取り組み、ミュージカル「王様と私」の練習が続いていた1996年6月28日。 本田美奈子さんは初めてオペラを歌った。曲目はプッチーニ「蝶々夫人」第2幕の有名なアリア「ある晴れた日に」である。プロデューサーは作曲家の三枝成彰さんだった。

第11回
本田美奈子さんは「MINAKOえとせとらテープ」に各国女性ヴォーカリストなどの楽曲を編集して収録し、サウンド、歌唱法の研究材料としていた。さらにディレクター牧田和男さんの下で、曲の創作も始めたのだった。

第3回
渥美清、谷啓、フランキー堺が主演する喜劇映画を撮り、テレビの世界では山口百恵主演の「赤い」シリーズ、「スチュワーデス物語」、「HOTEL」等の監督として活躍した瀬川昌治さん。この10月に87歳を迎えるが、今も現役監督として意欲は旺盛だ。

第10回
アルバム「Junction」では、驚くほどみずみずしい声を披露し、ミュージカル・スターの座に着くと同時にポップス歌手としても一段成長して復帰した。そして続けて新しいアルバムの制作にとりかかる。95年6月に発売された「晴れときどきくもり」である。

第9回
「Music Fair」は1964年8月31日に第1回が放映され、現在まで48年間続いているポップス専門音楽番組である。そんな歴史ある番組に本田美奈子さんは86年から2003年までで、23回も出演している。今回は、その17年を「Music Fair」プロデューサー石田弘さんと振り返る。

第8回
1994年9月25日に発売された本田美奈子さんの5年ぶりのオリジナル・アルバム「Junction」は、プロデューサー渋谷森久さんと岩谷時子さんが戦後日本のポピュラー音楽史を整理し、本田さんに手渡して物語を書き続けるように託した作品ではないだろうか。

第7回
東宝ミュージカル「王様と私」でソプラノ音域をフォルテの裏声(頭声)で歌い、観衆を驚倒させた本田美奈子さんは、同時にまったく発声法の異なるポップスの新作を発売する。ポップスでは少女のころよりも瑞々しい美しさを広い音域で表現するようになっていた。

第6回
本田さんはポップスの新作アルバムを1994年、95年と2年続けて発売した後、96年に東宝ミュージカル「王様と私」に出演した。この作品は、本田さんを「第2の越路吹雪」と絶賛した岩谷時子さんが初めてブロードウェイ・ミュージカルの訳詞を手がけた作品だった。

第5回
本田美奈子さんは初演版「ミス・サイゴン」上演中、ゴールデンアロー賞演劇新人賞を受賞し、初めてミュージカル女優として評価されることになった。アイドル時代の盛名が復活したそのときに出会ったのが「ミス・サイゴン」の訳詞者である岩谷時子さんだ。

第4回
アイドルだった本田美奈子さんがミュージカルの世界へ入ったのは何がきっかけだったのか。「ミス・サイゴン」のオーディションへ引き入れた東宝プロデューサー酒井喜一郎さんと、現場にいたプロデューサー古川清さんが語る「ミュージカル・スター本田美奈子誕生記」。

第3回
1992年5月5日に「ミス・サイゴン」の本公演が帝国劇場で始まると、すぐに全国紙が批評を載せている。このとき、本田美奈子さんへの酷評ぶりに驚いた記憶が残っていたので、当時の記事を探してみると、「アイドル歌手」の彼女への先入観の強さが感じられた。

第2回
ちょうど20年前に帝国劇場で本田美奈子さんの歌(「ミス・サイゴン」)を初めて聞いたとき、感動ではなく驚愕し、狼狽した。どう表現していいかわからなかったのだが、つい先日、図書館で70年代の本を読んでいて当時の自分の狼狽を理解できた。

第1回
清冽な歌唱の記録を残して本田美奈子.さんが亡くなったのは2005年11月6日である。38歳だった。日本のポピュラー音楽、そして音楽ビジネスの100年をたどるために資料をたどっていたとき、彼女の歌手人生の航跡に出会った。

第24回
4月1日から「食品中の放射性物質」の新規制値(基準値)が決定され、ぐっと厳しくなった。しかし、何がどれほど厳しくなったのか、わかったようでいてよくわからない。そこで、本記事では規制値が具体的にどう変わったのか説明したい。

第2回
昨年12月環境省は、放射能汚染の状況を重点的に調査測定すべき地域を「汚染状況重点調査地域」とし、首都圏を含む8県93市町村を指定した。では指定された自治体では今、どのような除染対策が取られているのだろうか。

最終回
1913年に「経済雑誌ダイヤモンド」を創刊し、ダイヤモンド社の社長をつとめた石山賢吉だったが、そこへ至る過程には、現在にも歴史を残す日刊紙や人物との深い関係性があった。最終回の今回は、「経済雑誌ダイヤモンド」創刊前後の文化史をひもときたい。

第44回
戦時下の統制で用紙も不足し、東京からの疎開がすすんで読者も激減した1944年秋、もっともページ数の少ない「ダイヤモンド」があった。本文16ページ立てで、厚さは1ミリもない。この薄さに当時の切迫した経済状況や資材不足が現れている。

第43回
高橋是清は4度目の蔵相に就任した日からわずか44日間で、1927年の金融恐慌を片付け、さっさと辞任した。実際は4月22日から3日間、銀行を休業させ、日銀による無制限融資を発表した時点で沈静化している。現在の金融当局並みの早業だった。

第42回
高橋是清は2度、窮地の日本経済を救った。1931年12月、高橋は蔵相に就任すると、金本位制からの再離脱を発表。財政拡張政策やインフレ政策によって、昭和恐慌を収束させた。高橋が行ったケインズ以前のケインズ政策を後世の研究者は高く評価している。
