坪井賢一

坪井賢一

コラムニスト

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。

第13回
「レ・ミゼラブル」10周年公演に登場研究を重ねてたどりついた歌唱法分析(1997)
坪井賢一
本田美奈子さんは「ミス・サイゴン」の成功後、ミュージカル出演の要請が押し寄せていたのだが、本田さんは「レ・ミゼラブル」10周年記念公演を選択した。島田歌穂さんとダブルキャストだったが、彼女は島田さんと異なる独特の歌唱をし、人々を魅了した。
「レ・ミゼラブル」10周年公演に登場研究を重ねてたどりついた歌唱法分析(1997)
第12回
「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)
坪井賢一
作詞作曲に取り組み、ミュージカル「王様と私」の練習が続いていた1996年6月28日。 本田美奈子さんは初めてオペラを歌った。曲目はプッチーニ「蝶々夫人」第2幕の有名なアリア「ある晴れた日に」である。プロデューサーは作曲家の三枝成彰さんだった。
「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)
第11回
「シンガーソングライター本田美奈子」誕生、自作曲創作の秘密(1995-96年)
坪井賢一
本田美奈子さんは「MINAKOえとせとらテープ」に各国女性ヴォーカリストなどの楽曲を編集して収録し、サウンド、歌唱法の研究材料としていた。さらにディレクター牧田和男さんの下で、曲の創作も始めたのだった。
「シンガーソングライター本田美奈子」誕生、自作曲創作の秘密(1995-96年)
第3回
映画監督・瀬川昌治インタビュー49本目の新作を準備する86歳の現役最高齢監督「創作意欲がなくなるまでやめません」
坪井賢一
渥美清、谷啓、フランキー堺が主演する喜劇映画を撮り、テレビの世界では山口百恵主演の「赤い」シリーズ、「スチュワーデス物語」、「HOTEL」等の監督として活躍した瀬川昌治さん。この10月に87歳を迎えるが、今も現役監督として意欲は旺盛だ。
映画監督・瀬川昌治インタビュー49本目の新作を準備する86歳の現役最高齢監督「創作意欲がなくなるまでやめません」
第10回
アルバム「晴れときどきくもり」(1995年)「ディレクター牧田和男」との音楽的格闘
坪井賢一
アルバム「Junction」では、驚くほどみずみずしい声を披露し、ミュージカル・スターの座に着くと同時にポップス歌手としても一段成長して復帰した。そして続けて新しいアルバムの制作にとりかかる。95年6月に発売された「晴れときどきくもり」である。
アルバム「晴れときどきくもり」(1995年)「ディレクター牧田和男」との音楽的格闘
第9回
「Music Fair」へ17年間に23回招き、多彩な歌唱を生んだ石田弘プロデューサー
坪井賢一
「Music Fair」は1964年8月31日に第1回が放映され、現在まで48年間続いているポップス専門音楽番組である。そんな歴史ある番組に本田美奈子さんは86年から2003年までで、23回も出演している。今回は、その17年を「Music Fair」プロデューサー石田弘さんと振り返る。
「Music Fair」へ17年間に23回招き、多彩な歌唱を生んだ石田弘プロデューサー
第8回
5年ぶりのポップス・アルバム「Junction」は「プロデューサー渋谷森久」最後の作品(1994)
坪井賢一
1994年9月25日に発売された本田美奈子さんの5年ぶりのオリジナル・アルバム「Junction」は、プロデューサー渋谷森久さんと岩谷時子さんが戦後日本のポピュラー音楽史を整理し、本田さんに手渡して物語を書き続けるように託した作品ではないだろうか。
5年ぶりのポップス・アルバム「Junction」は「プロデューサー渋谷森久」最後の作品(1994)
第7回
ミュージカル経験で音域と表現力が急拡大新曲「つばさ」で超絶技巧を披露(1994年)
坪井賢一
東宝ミュージカル「王様と私」でソプラノ音域をフォルテの裏声(頭声)で歌い、観衆を驚倒させた本田美奈子さんは、同時にまったく発声法の異なるポップスの新作を発売する。ポップスでは少女のころよりも瑞々しい美しさを広い音域で表現するようになっていた。
ミュージカル経験で音域と表現力が急拡大新曲「つばさ」で超絶技巧を披露(1994年)
第6回
「王様と私」オーケストラを圧倒した高音フォルテソプラノの歌唱技術に挑んだ1996年
坪井賢一
本田さんはポップスの新作アルバムを1994年、95年と2年続けて発売した後、96年に東宝ミュージカル「王様と私」に出演した。この作品は、本田さんを「第2の越路吹雪」と絶賛した岩谷時子さんが初めてブロードウェイ・ミュージカルの訳詞を手がけた作品だった。
「王様と私」オーケストラを圧倒した高音フォルテソプラノの歌唱技術に挑んだ1996年
第5回
「屋根の上のヴァイオリン弾き」で再び帝劇へ同時に岩谷時子さんとポップス復帰へ乗り出す
坪井賢一
本田美奈子さんは初演版「ミス・サイゴン」上演中、ゴールデンアロー賞演劇新人賞を受賞し、初めてミュージカル女優として評価されることになった。アイドル時代の盛名が復活したそのときに出会ったのが「ミス・サイゴン」の訳詞者である岩谷時子さんだ。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」で再び帝劇へ同時に岩谷時子さんとポップス復帰へ乗り出す
第4回
本田美奈子さんが審査員をノックアウトした「ミス・サイゴン」オーディションの舞台裏
坪井賢一
アイドルだった本田美奈子さんがミュージカルの世界へ入ったのは何がきっかけだったのか。「ミス・サイゴン」のオーディションへ引き入れた東宝プロデューサー酒井喜一郎さんと、現場にいたプロデューサー古川清さんが語る「ミュージカル・スター本田美奈子誕生記」。
本田美奈子さんが審査員をノックアウトした「ミス・サイゴン」オーディションの舞台裏
第3回
「ミス・サイゴン」で「美奈子キム」と500回共演指揮者・塩田明弘さんが語る「小節線を越える力」
坪井賢一
1992年5月5日に「ミス・サイゴン」の本公演が帝国劇場で始まると、すぐに全国紙が批評を載せている。このとき、本田美奈子さんへの酷評ぶりに驚いた記憶が残っていたので、当時の記事を探してみると、「アイドル歌手」の彼女への先入観の強さが感じられた。
「ミス・サイゴン」で「美奈子キム」と500回共演指揮者・塩田明弘さんが語る「小節線を越える力」
第2回
「ミス・サイゴン」でポップスの声を変え音域を広げて観客を震撼させた日
坪井賢一
ちょうど20年前に帝国劇場で本田美奈子さんの歌(「ミス・サイゴン」)を初めて聞いたとき、感動ではなく驚愕し、狼狽した。どう表現していいかわからなかったのだが、つい先日、図書館で70年代の本を読んでいて当時の自分の狼狽を理解できた。
「ミス・サイゴン」でポップスの声を変え音域を広げて観客を震撼させた日
第1回
【新連載】アイドルからクラシック・クロスオーバーまでポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた20年
坪井賢一
清冽な歌唱の記録を残して本田美奈子.さんが亡くなったのは2005年11月6日である。38歳だった。日本のポピュラー音楽、そして音楽ビジネスの100年をたどるために資料をたどっていたとき、彼女の歌手人生の航跡に出会った。
【新連載】アイドルからクラシック・クロスオーバーまでポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた20年
第24回
これで安心・安全な食卓は実現する?放射能汚染食品「新基準値」の読み方
坪井賢一
4月1日から「食品中の放射性物質」の新規制値(基準値)が決定され、ぐっと厳しくなった。しかし、何がどれほど厳しくなったのか、わかったようでいてよくわからない。そこで、本記事では規制値が具体的にどう変わったのか説明したい。
これで安心・安全な食卓は実現する?放射能汚染食品「新基準値」の読み方
第2回
環境省が指定した「放射能汚染地域」は首都圏まであなたが住む街の役所の行動を知っていますか?
坪井賢一
昨年12月環境省は、放射能汚染の状況を重点的に調査測定すべき地域を「汚染状況重点調査地域」とし、首都圏を含む8県93市町村を指定した。では指定された自治体では今、どのような除染対策が取られているのだろうか。
環境省が指定した「放射能汚染地域」は首都圏まであなたが住む街の役所の行動を知っていますか?
最終回
「経済雑誌ダイヤモンド」創刊の文化史と人物誌(1913年)
坪井賢一
1913年に「経済雑誌ダイヤモンド」を創刊し、ダイヤモンド社の社長をつとめた石山賢吉だったが、そこへ至る過程には、現在にも歴史を残す日刊紙や人物との深い関係性があった。最終回の今回は、「経済雑誌ダイヤモンド」創刊前後の文化史をひもときたい。
「経済雑誌ダイヤモンド」創刊の文化史と人物誌(1913年)
第44回
史上もっとも薄い戦時下の「ダイヤモンド」を読む(1944年)
坪井賢一
戦時下の統制で用紙も不足し、東京からの疎開がすすんで読者も激減した1944年秋、もっともページ数の少ない「ダイヤモンド」があった。本文16ページ立てで、厚さは1ミリもない。この薄さに当時の切迫した経済状況や資材不足が現れている。
史上もっとも薄い戦時下の「ダイヤモンド」を読む(1944年)
第43回
昭和金融恐慌で高橋是清が危機を処理した44日間(1927年)
坪井賢一
高橋是清は4度目の蔵相に就任した日からわずか44日間で、1927年の金融恐慌を片付け、さっさと辞任した。実際は4月22日から3日間、銀行を休業させ、日銀による無制限融資を発表した時点で沈静化している。現在の金融当局並みの早業だった。
昭和金融恐慌で高橋是清が危機を処理した44日間(1927年)
第42回
高橋是清のインフレ政策で昭和恐慌から脱出(1931-32年)
坪井賢一
高橋是清は2度、窮地の日本経済を救った。1931年12月、高橋は蔵相に就任すると、金本位制からの再離脱を発表。財政拡張政策やインフレ政策によって、昭和恐慌を収束させた。高橋が行ったケインズ以前のケインズ政策を後世の研究者は高く評価している。
高橋是清のインフレ政策で昭和恐慌から脱出(1931-32年)
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