坪井賢一
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坪井賢一

コラムニスト

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。

第159回
ソ連政府はどのように収束させたのか――福島原発震災 チェルノブイリの教訓(3)
坪井賢一
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故は、人為的ミスによる暴走事故だとされている。あれから25年、死者数の推計にすら諸説あり、まだ事故の影響は色濃く残っていることがわかる。しかし、多大な犠牲者を出しながら、じつはソ連政府は10日間でほぼ事態を収束方向にもっていった。私たちが学べる点はあるだろうか。
ソ連政府はどのように収束させたのか――福島原発震災 チェルノブイリの教訓(3)
第24回
阪神大震災の復興プロジェクトの一つ神戸製鋼の新鋭火力発電所の威力
坪井賢一
福島原発事故が発生した今、「原発はクリーンエネルギー」などというフィクションは通用しない。今こそ送電・配電の規制緩和、自然エネルギー投資などを考えるべきだ。そこで参考にしたいのが、阪神大震災で最大の被害を受けた神戸製鋼の復興と発電ビジネスだ。
阪神大震災の復興プロジェクトの一つ神戸製鋼の新鋭火力発電所の威力
第156回
子どもの甲状腺被曝検査の継続を――福島原発震災 チェルノブイリの教訓(2)
坪井賢一
福島ではすでに子どもの甲状腺被曝状況を調査しており、「問題なし」と報じられている。また、ヨウ化カリウム溶液の投与も済んでいたので、チェルノブイリのような事態になることはないだろう。だが被曝量の数値も公表したほうがいい。福島原発事故による放射性物質の飛散はチェルノブイリ事故より規模は小さいが、プロセスは同じだ。
子どもの甲状腺被曝検査の継続を――福島原発震災 チェルノブイリの教訓(2)
第23回
大震災から復旧・復興するために思い出すべき阪神大震災直後、そして1年後の神戸の姿
坪井賢一
日本が東日本大震災に苦しむ今、阪神大震災を題材にしたレポートを再読してみたい。当時、政府や自治体よりも迅速な行動をとったのは、神戸の大企業だった。その中でも特出していたのが、ダイエーの中内功会長だ。
大震災から復旧・復興するために思い出すべき阪神大震災直後、そして1年後の神戸の姿
第22回
1960年代日本の高度成長とベトナム戦争の密接な関係
坪井賢一
1959-1969年度ではおおむね実質成長率が二桁を記録しているが、年は突出して低迷した。しかし、わずか1年で景気は回復し、翌1966年には二桁成長に軌道を戻す。1年で回復したその要因の1つとして挙げられるのが、ベトナム戦争の特需だ。
1960年代日本の高度成長とベトナム戦争の密接な関係
第21回
国際通貨制度にフランスが与えた影響は?英米の支配を極端に嫌ったドゴールの国際戦略
坪井賢一
1960年代の国際通貨制度の調整過程でフランスが与えた影響を検証する。国際通貨制度の現代史を調べると、現在の文献にフランスが登場することはほとんどないが、実はフランスが節目ごとに影響を与えているのである。
国際通貨制度にフランスが与えた影響は?英米の支配を極端に嫌ったドゴールの国際戦略
第20回
通貨が没落するとき、歴史はどう動くか――20世紀に3回起きたポンド危機から読み解く
坪井賢一
前回は、1967年11月に起きたポンド危機を取り上げた。しかしポンド切下げは、じつは20世紀に3回起きていた。その3回の危機は、それぞれ世界経済にどのような影響を与えたのだろうか。
通貨が没落するとき、歴史はどう動くか――20世紀に3回起きたポンド危機から読み解く
第19回
高度経済成長期を襲った英国ポンド危機の最中、なぜ日本はGNP世界第2位に上がったのか
坪井賢一
1971年のドル・ショックは日本経済に強い衝撃を与えた。その原因の1つが、当時“もう1つの決済通貨”だったポンドの危機だ。しかし、ポンド切り下げの波紋が広がるなかで、なぜ日本はGNP世界第2位の地位を築けたのだろうか。
高度経済成長期を襲った英国ポンド危機の最中、なぜ日本はGNP世界第2位に上がったのか
第18回
金沢はかつて全国5位の大都市だった!?1960年代高度成長に起きた人口移動の歴史的背景
坪井賢一
1958年前後から1973年まで、日本は歴史的な高度成長時代を過ごした。人口は増加し、大都市への集中が進む。これから日本の1960年代高度成長期について探検してみるが、今回は1960年代の日本人の原形を考えてみたい。
金沢はかつて全国5位の大都市だった!?1960年代高度成長に起きた人口移動の歴史的背景
第17回
経済のグローバル化はこの日からはじまった!「ドル・ショック」を越えて新国際経済秩序へ
坪井賢一
1971年8月15日のニクソン声明以来、悲観論が蔓延した。しかし、景気は早期に回復したことからも、この声明が『新しい世界経済体制へのスタート』であり、グローバル経済化の最初の号砲だったということができる。
経済のグローバル化はこの日からはじまった!「ドル・ショック」を越えて新国際経済秩序へ
第16回
実施されれば国民の混乱は必至!?ドル・ショック後に浮上したデノミ論の中身
坪井賢一
1971年に起きた「ドル・ショック」は、通貨単位の切り下げを意味する「デノミ議論」を浮上させた。過去にもハイパーインフレ対策などのために行われ、近年も北朝鮮などで行われている「デノミ」だが、その実施には様々な不安も含まれる。
実施されれば国民の混乱は必至!?ドル・ショック後に浮上したデノミ論の中身
第15回
ドル・ショックの衝撃 ――1971年、戦後国際金融制度が崩壊した日
坪井賢一
1971年8月、米国のニクソン大統領は、議会にも相談せずに「金とドルとの交換停止」を発表した。世界は「ドル・ショック」一色に染まることとなったが、なぜ、ニクソン大統領はブレトンウッズ体制を崩壊させたのだろうか。
ドル・ショックの衝撃 ――1971年、戦後国際金融制度が崩壊した日
第14回
「石油危機は千載一遇のチャンス」だった?狂乱インフレ下における企業の倫理観欠如
坪井賢一
第4次中東戦争の影響により、石油価格は上昇し、日本では狂乱インフレが始まった。インフレ下では、供給側が原材料を買い占めて製品を売り惜しみすることで利益は増大した。企業の社会的責任など、言葉すらなかった時代だ。
「石油危機は千載一遇のチャンス」だった?狂乱インフレ下における企業の倫理観欠如
第13回
原油価格上昇を超えた狂乱インフレに!第1次石油危機から日本が得た「教訓」とは
坪井賢一
1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍がイスラエルに先制攻撃し、第4次中東戦争が始まった。これをきっかけに第1次石油危機へと至るが、アラブ産油国の石油戦略はイスラエルとの戦争で突然出てきたものではないことに注意せねばならない。
原油価格上昇を超えた狂乱インフレに!第1次石油危機から日本が得た「教訓」とは
第12回
なぜ世界はスタグフレーションに陥ったのか―1970年代の石油危機が引き起こしたパニックの余波
坪井賢一
1970年代に2度の石油危機が起きた。中東の政治情勢の変化=衝撃によって世界に経済的な影響が波及したものである。これによって原材料価格が上がり、産業界のコスト構造が急速に変化する。そしてその結果、スタグフレーションが常態となった。
なぜ世界はスタグフレーションに陥ったのか―1970年代の石油危機が引き起こしたパニックの余波
第11回
1980年代前半の米国高金利、後半のプラザ合意による円高を演出したポール・ボルカーの恐るべき力
坪井賢一
米国は1960年代半ばからインフレが続いていた。それに対して高金利政策によるインフレ退治、そしてその後乱高下したドルに対してドル安誘導が行われた。この一連の国際金融制度のチェンジを振り付けたのが元FRB議長ポール・ボルカーである。
1980年代前半の米国高金利、後半のプラザ合意による円高を演出したポール・ボルカーの恐るべき力
第10回
株バブルは1989年末、日経平均3万8915円で頂点に現代日本とは正反対の超楽観的だった時代
坪井賢一
1989年12月29日、日経平均株価は大納会のこの日、終値で3万8915円のピークにいたった。「4万円乗せも翌年春あたりに達成するのではないか」という読みもあったが、実際の株価は1990年に入ると下がり、10月には暴落することとなった。
株バブルは1989年末、日経平均3万8915円で頂点に現代日本とは正反対の超楽観的だった時代
第9回
空室率0.2%から一転、供給過剰の大パニックに!1990年、オフィスビル・バブルの頂点で見えた崩壊の縁
坪井賢一
1990年当時、都心のオフィスビルの空室率は0.2%、ほぼ満杯、需要超過、供給不足で過熱していた。しかし、株価が下落をはじめていたこの年、すでに不動産バブルがはじけ、不動産不況の到来を予想する声は高まっていた。
空室率0.2%から一転、供給過剰の大パニックに!1990年、オフィスビル・バブルの頂点で見えた崩壊の縁
第8回
バブル経済の崩壊は、世界をどう変えたのか――社会主義・資本主義の並存からグローバルな資本主義へ
坪井賢一
1990年のバブル崩壊は、「昨日までの世界」と「今日の世界」の分水嶺だった。つまり、資本主義と社会主義の並存の世界から全面的に地球を覆うグローバリザーションの世界へと変化したのである。
バブル経済の崩壊は、世界をどう変えたのか――社会主義・資本主義の並存からグローバルな資本主義へ
第7回
日本のバブル崩壊初期 1992年8月金融危機をからくも切り抜けた宮澤首相の危機意識
坪井賢一
宮澤喜一政権が誕生した1991年11月、国民はうすうすバブル崩壊を感じはじめていた。そして9か月後の1992年8月、1万4000円台に突入。危機感を強めた大蔵省は、「金融行政の当面の運営方針」を急遽発表し、対策に乗り出した。
日本のバブル崩壊初期 1992年8月金融危機をからくも切り抜けた宮澤首相の危機意識
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