ニーチェはプライドが高いのか、変人なのか、笑いのツボが人と少し違うようだ。私はニーチェがひとしきり笑いおさまるのを待った。

「まあ、何が言いたいかというと“永劫回帰”を受け入れられるか、受け入れられないかで大きく人は変わるということだ」

「エイゴウカイキ?一体何それ?」

「アリサ、この話はとてつもなく辛いぞ~。アリサに聞く勇気があるか?ちなみに私はこの考えにたどり着いた時、辛すぎて七日間も引きこもったぞ~」

「えっ七日間も引きずるほど辛いの?」

「そうだ、七日間引きこもるとなると、ずっとスマホをいじることくらいしか娯楽がなくなるぞ、スマホをいじりすぎて、すぐ低速制限になって辛いぞ~」

「そこまで言われると、知りたくないんだけど……ほら、知らぬが仏っていうし」

 私がそう言うと、ニーチェはいきなり血相を変え、目をカッと開いて、黙りこんだ。

 なぜかわからないが、拳を握り締めワナワナと震えている。

 いまにも「てめえらに今日を生きる資格はねえ!」と北斗神拳を繰り出しそうなほどの殺気をかもしだしている。

「ごっ、ごめん、ニーチェ何か気に障った?」

「アリサ、いま仏と言ったか……神は、神は死んだのだあああ!」

 ニーチェは拳を握り締めたまま、「神は死んだのだあああ!」と大声を張り上げた。

 周りにいる新歓コンパ中であろう大学生が「なんかあいつヤバい、ヤバくない?」「ちょっ、あんま見るなって」とひそひそ話しながら、こちらを見ている。

「どうしたの、いきなりそんなに荒ぶって」

「知らぬが仏、といま言ったな。知らないことを探求しなければ、神の存在も否定されなかっただろう。
 しかし、真実と誠実に向き合った場合に、神の存在というものは、否定されてもおかしくない。という結論に行き着くのだ」

「どういうこと?」

「カラスが白いか黒いか、みたいなもんだ。
 真実と向き合わなければ“カラスは白いのです”という神の教えがあったとしたら“カラスは黒く見えているだけで、本当は白いんだ”と思いこめたかもしれない。
 しかし真実と向き合う誠実さを持つと、神がカラスを白いと言おうとも“カラスはどう見ても黒いじゃん”と思ってしまうだろう。
 真実に誠実に向き合っていくと、神という存在自体、うさんくさくなってくる。だから神は死んだのだ。死んだ、というか、もともと存在していたかどうかすら怪しいだろう。そしていまはそういう時代に突入しているのだ」

「そういう時代っていうのは?」

「自由思想家の時代だ」

「自由思想家の時代?」

「そうだ、世の中にはいろんな価値観が溢れている。
 言い方を変えると、いろんな視点でものを見ることが出来るようになった。
 いろんな価値観、いろんな視点があるということは、逆に絶対的な“正解”がないということだ。つまり、絶対的な“幸福”という答えやゴールが現代においてはないのだ」

「絶対的な答えがない?」

「そうだ。人生の指針にすべき答えや、目指すべきゴールというものが、定まっておらずぼんやりとした状態だ。
 仮にゴールがあったのならば“こういう風に生きれば、絶対的な幸せを掴めるんだ”という目標に向かって一心に立ち向かって行くことが出来る。RPGのように、ラスボスを倒し、姫を助け出す!といった明確なゴールがあれば、そこに向かってダンジョンを突き進めばいいからな。
 しかし、絶対的なゴールがない場合はどうだろう。ようするに、ボスがいない状態のゲームだ。ボスがいないゲームでもある程度、楽しむことが出来る。仲間と一緒にモンスターを討伐したり、草原でハチミツを採取したり……ゲームを楽しむことは出来るが、どこに向かえばいいか、何を目標にすればいいかはぼんやりしてしまうのだ。
 絶対的なものはなく、自分が納得出来ることを信じる“自由思想家”の時代に突入したが、これは絶対的な“正解”がない時代とも言えるのだ。まあ過去に幸福のゴールとされていたものも、まやかしにすぎなかったとも考えられるがな」

「なるほど、ゲームに置き換えるとたしかにそうだね。ゴールがなくて、暇つぶしのためのゲームも多いもんね」

「暇つぶしは楽しくはあるが、喜びではないのだ」

(つづく)

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある