昭和30年に巻き起こった下着ブーム
戦後のファッションを牽引したのは、フランスのファッションデザイナー、クリスチャン・ディオールであった。
ノルマンディー地方の裕福な家庭に育ち、高級官僚を輩出する最高学府のパリ政治学院に進んだディオールだが、芸術に関心が強かった彼はファッション界に進出。一気に時代の寵児となる。
だが、その絶頂期に52歳の若さで謎の死を遂げた。一説では腹上死とも言われているが、ゲイであった彼の相手が女性であったかどうかは判然としない。
その彼が、新しい時代を画する女性のファッションとして提示したのが“ニュールック”だった。
従来の“ペンシルスリム”と呼ばれた体を全体に細く見せようという趣向とは異なり、腰は細く絞り、朝顔型に開いたスカートなどでバストとスカートにアクセントを置き、数字の8の字を描く曲線を特徴とする斬新なものである。
この新しい時代のファッションは、時を置かずして日本にも上陸した。
それはフランスから直接ではなく、占領下のアメリカ婦人や米兵を相手にしていた日本人女性、いわゆる“パンパンガール”から流行が始まったのである。
ディオールの巻き起こした流行が、下着市場にとっていかに大きな影響を与えることになったかは、後にワコールの取締役中央研究所長となる玉川長一郎が、彼の著書『おんなの下着学─―永遠の女性美とエロスの歴史』の中で、いささか興奮気味に次のように語っていることでもわかる。
〈このディオールの華々しい活躍によって誘発されたもろもろの業績のうち、下着業界に与えた衝撃と奮起振興の促進剤的役割は、いくら大きく評価しても誇大にすぎるということはない〉
そして昭和28年(1953年)から翌年にかけて、クリスチャン・ディオールの第2次旋風と言われたニュールックブームの再来があった。
その影響で、和江商事だけでなく各地で、ニュールックのシルエットを出せるよう工夫された下着ショーが行われるようになっていく。
昭和28年10月には、由緒ある三田綱町の三井倶楽部で鐘紡主催による下着ショーが行われた。これは田中千代ファッションカレッジ創設者として知られる田中千代が、海外で購入してきた11着分のパターンをもとに、実際に縫い上げて行われたものであった。
さらに同年11月24日には、なんとディオールのモデル一行が83点の作品とともに来日し、下着ショーを行っている。