五条陣屋はどうだったか?
では、五条陣屋はどうであったかというと、代官の鈴木源内以下、「手付」「手代」を含めて官吏総勢で十四名であったという。
たったこれだけの人数で、七万石の領内の行政、司法すべてを担当していたのである。
代官同様「手付」も幕府直参であるが、御目見得以下の者、即ち御家人(ごけにん)が多かった。
これも江戸から赴任してくるが、「手代」は現地採用である。
現地の百姓から選抜されるのが、仕組みとしての「手代」であり、従って陣屋の役人とはいえ、元は百姓である。
非常に厳しい試験を通ってくるので、学問のできる者が揃っていた。
百姓とはいえ、大小を束(たば)ねており、十手をもっているほか、通常小者が二~三人付く。
馬に乗ることも許されており、騎馬で領内を巡察する様は、大名領なら百石とか二百石取りの武家と変わらない。
唯一違いがあるとすれば、槍をもつことを許されていなかったことくらいであろう。
それにしても、七万石で十四名とは何と無防備なことか。
これでは、戦力という見方をすれば、小者を含めても二十名前後にしかならなかったはずである。
しかも五条陣屋の場合は、領内に山深い、あの十津川村などを抱えており、石高(こくだか)の割に領内は広大な山地であった。
しかし、この規模は、何も五条陣屋に限ったことではなく、天領を管轄する代官所というものは、何処(どこ)でも大体このような規模であった。
この規模で、行政全般、司法のみならず、もっとも重要な防衛=軍事をすべて担当するのである。
今の霞ヶ関の官僚や地方自治体の職員なら、一笑に付してその事実を信じないであろう。
別の見方をすれば、天領には「サムライ」の数が極端に少なかったということだ。
天領とは、それで済むほど平和で、平穏な土地であったともいえるのである。
天誅組は、代官鈴木源内(すずきげんない)、手付長谷川岱助(はせがわたいすけ)以下五名を惨殺、その首を晒さらした。
手代も含まれている。