自分に役立つものだけで
時間が構成されているのは不自然ではないか
かつて辞書や事典などで何かを調べるうち、偶然別のことに引っ掛かることがあった記憶のある方は多いと思います。例えば、辞書で目的の言葉の隣にある言葉が妙に気になってしまうといったことです。
また最近でも、「ウィキペディア」で調べものをしているうち、気づいたらとんでもないことを調べていたという経験のある方がいらっしゃるでしょう。
検索した目当ての事柄を読んでいる途中で、本文中の気になる事柄や人物にジャンプする。それを繰り返しているうち、当初検索しようとした事柄とはまったく異なるものにたどり着いてしまったという経験です。
多くのビジネスパーソンにとって、目的のものを無駄なく探し当てるのは仕事の効率というものです。余計なことに目移りし、無駄な時間を費やすのは仕事とは言えないでしょう。
まして「時間を費やしたのに結局何も得られなかった」「そのときは意味がなくても、いつか役に立つことがあるかもしれない」「調べたけれども結局何の役にも立たなかった」などと悠長なことは言っていられません。
しかし、一見無駄なことから派生する「偶有性」がなくなってしまうと、効率性は高まって必要なことを深く掘り下げて知ることはできますが、横に広がっていきません。
私には、この状態が人間のこころを豊かにするとはどうしても思えないのです。
徹底的に無駄を排除し、役立つものだけで自分の時間が構成されているというのはとても不自然なことだと思います。
ウィキペディアの事例に限ったことではありませんが、無駄な体験の積み重ねが人間の内面を豊かにするのではないでしょうか。
私の友人に、ミシマ社という小さな出版社を経営する方がいます。その彼が最近『計画と無計画のあいだ』という本を出版しました。
ミシマ社は、ビジョンがあるようなないような状態で始めた会社だといいます。
出版業界の人に聞くと、大手の出版社の人も含めほとんどの人が「ミシマ社っていいですよね」と口にします。自分の会社ではできないけれども、彼らのようなスタンスで本を作ることが理想だと考える人が多いのです。
計画でも無計画でもない、意識していることだけでも無意識に入ってくることでもない、仕事に必ず役立つことでもまったく仕事に役に立たないものでもない。そんなことに日々触れていることが、人生を豊かにするのではないでしょうか。