ほんの100年前の社会は、
コントロールできないものばかりだった

 最近、私はよく時代小説を手に取ります。

 江戸時代を舞台にした小説などでは、徒歩以外に交通手段がないので、どこに行くにも移動に時間がかかっていることがわかります。ちょっと今日はあそこにでも行ってみようかと計画しようものなら、たいへんな労力を覚悟しなければなりません。

 さんざん歩いてようやく着いても、肝心の相手がいないということも珍しくはありません。家人に聞くと旅に出たといいます。メールはおろか電話もない時代では、相手の予定を確認する術はほとんどありません。

 おそらく、当時は「空振り」というのが日常茶飯事だったのでしょう。自分が会いたいと思って出かけても相手がいないのが当たり前、計画が思うように達成できなくてもそれを無駄と考えることはなく、腹を立てたりがっかりしたりしている姿も描かれていません。

 彼らは潔く諦め、頭を切り替えます。

 せっかくここまで来たのだから、帰りにどこかへ寄って行こう。当初の計画にはまったくなかったところに目を向けるのです。そんなときこそ、偶然の出会いや新たな発見があったのではないでしょうか。

 想像するに、無駄はネガティブなものではなかったと思います。

 自分のコントロールできる部分が圧倒的に少なかったため、ネガティブに考えても仕方がなかったのです。

 むろん、この時代に戻るべきだと言っているのではありません。

 しかし、効率化を極限まで追求した現代では、計画を達成することがすべてになってしまっているのではないでしょうか。そこでは、無駄はもっとも忌むべき行為の一つとなっています。

 無駄に対してただイライラを募らせてばかりいると、時代小説の登場人物のように帰り道に計画外の行動をしようというこころの余裕は生まれてきません。立てた計画が実現せず、無駄な時間を費やしたからこそ予想もしなかった偶然の出会いや発見に出会えたという発想を持つことも必要なのではないでしょうか。

 私は、計画通りにいかない無駄なことが多かったこの時代、人々のこころが貧しかったとは思いません。むしろ、無駄を無駄と思わず、頭を切り替えたことで手に入れるものがあった豊かな時代だったとも言えると思います。