「ニトリ、イケアは競合ではない」と言い続ける匠大塚会長の勝算Photo by Yoshihisa Wada

「家賃はタダ」の発想で商品価格を下げる

 私が信じる商売の鉄則は、「良い物を、十分な説明で、ご納得いただいて、値引きなしで売る」である。

 それは桐箪笥職人である父の仕事を手伝い、中学生になると経理を任されるまでになった頃から常に考えていたもので、実際、それを具現化する努力が大塚家具の成長の歴史そのものだった。

 大塚家具は、春日部で開業後は埼玉県内で出店を進めていたが、1978年、35歳のときに東京に出る決意をした。マーケットの大きい東京で一勝負したかったからだ。

 東京への本社移転と1号店は、板橋区のボウリング場だった建物だ。3階建てで、1フロアが1200坪もある巨大なもので、ボウリング場時代は1フロアに50レーンもあった。1階はショールームと配送センター、2~3階は倉庫にした。

 その倉庫に全国のメーカーから直で仕入れた商品を集めた。問屋を介さないから価格を抑えられる。さらにメーカーと相談してお客さまのライフスタイルに合わせたオリジナルの家具を造って売った。メーカーと一緒に努力して造った家具はよく売れた。

 この東京出店で価格を安くできるモデルを構築できたと思っている。特に重要だったのは、店舗については「家賃はタダ」というものだ。

 1970年頃に「中山律子・須田開代子」が起こしたボウリングブームは、73年頃には下火になり、経営不振にあえぐボウリング場が続出した。そうした駅前に近く、フロア面積が大きく、それでいて業態転換などに苦しんで家賃が下がっている施設を狙う。メーカーとの直取引は粗利が高いので、売値を1割下げても売上高が増えれば家賃はあっという間に元が取れる。これが「家賃はタダ」の発想だ。東京に出て、売上高はそれまでの20億円から、2年間で100億円に増えた。

 以後、大塚家具の出店地は、この業態転換に苦労している建物を確保するという方針を貫いている。70年代はボウリング場、その後は駅前の量販店、バブル崩壊後はウォーターフロント、そして90年代後半からは百貨店跡への出店だった。

 そうした方針の最大の成果が、現在、大塚家具の本社兼旗艦店となっている「有明本社ショールーム」だろう。