技術開発者、経営者、研究者と、IT社会の前線で常に時代を引っ張ってきた西和彦氏。その重層的な経験は、西氏に今、どのような感慨をもたらしているのだろうか。日本IT史における一時代の主役の一側面を記すインタビューをお届けする。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 深澤 献)
ネット社会の到来と変革の様相は
ほぼ20年前の予想通りだった
――西さんと初めてお目にかかったのは1990年代初めのことで、まだインターネットの黎明期でした。その際にはインターネットの未来を実感させられました。
西 確か週刊ダイヤモンドの別冊で、『インターネット超時空術』という雑誌を一緒に作りましたね。
――1996年です。西さんに監修していただきました。あの時、西さんは、「これからはハワイでも、山の中の温泉でも仕事ができるよ」とおっしゃって、編集スタッフ用のサイトを作って、全員が取材状況を共有できるようにしてくれました。偶然、私は編集作業中に別件でハワイ出張があり、ホテルで「電話にこのパソコンをつなげてインターネットを使いたいのですが」と説明したら、コンシェルジュが「当ホテルではできませんが、ここで聞いてみては?」と教えてくれた場所があり、行ってみるとIBMのハワイ支社でした(笑)。当時はまだ早かったけれど、その後、西さんの言った通り、インターネットで仕事ができる時代が確実にやってきました。
西 96年と言えば、私がアスキーの社長を務めていたころですが、そのころの予言はほぼ当たっています。個別の技術うんぬんというよりも、インターネットの社会性というか、人々の暮らしを革命的に変えていくという社会学的な意味での部分はほとんど予測していた通りでした。
――80年代の西さんは、マイクロソフトと組んで、後に「パソコン」と呼ばれる機器の開発に全力を挙げていましたが、思い出深い機器はありますか。
西 たくさんあって、これ一つにと絞れない(笑)。例えば「NECのPC8001」とかかなぁ。それ以外にもIBMのパソコンや、鳥取三洋電機に作ってもらったゼニス社向けのポータブルパソコンは、世界初のIBM互換機、いわゆるコンパチのノートパソコンでした。松下電器とソニーが同じ規格を採用してくれた「MSXパソコン」や、Windows1.0を搭載した日本初のデスクトップパソコン「NEC PC100」、パソコンに初めてCD-ROMを搭載した富士通の「FM TOWNS 」なども思い出深いものです。企画や設計に深くかかわったからです。
当時は、パソコンに必要なビデオチップやオーディオチップ、そしてCPUもアスキーで開発していたし、CDに74分のビデオを入れられるデジタル画像圧縮技術では日刊工業新聞社から賞もいただきました。
――懐かしいものばかりですね。連載でも書かれていましたが、発想の根底には「コンピューターはメディアになる」という思想が一貫してありましたね。
西 コンピューターは、最初は数字で、計算機、次に文字、つまりワープロになり、図や写真が扱えるようになり、オーディオ編集やビデオ編集へと機能を高めてきました。
発想のバックボーンにあるのは、じつは子どものころからやっていたアマチュア無線で、電信や音声だけでなく、無線でテレタイプや画像送信ができるようになっていった経験がありました。つまり、無線はメディアになっていったわけです。そうした経験をしていたからこそ、コンピューターもメディアになると予想できたのです。