ほとんどの人は1つのキャリアで成功すればそれで幸せだと思う。アメリカの起業家セオドア・ニュートン・ヴェール(1845~1921)は、そうした幸せをいくつか味わっている。
まず、ヴェールはアメリカ政府の一員として郵便配達のシステムの刷新をなし遂げた。キャリアの第2章では、アメリカン・ベルテレグラフ社の設立とその育成に力を尽くした。
偉大な発明家の背後には、例外なく、ゼロから企業を立ち上げる能力のある経営の革新者がついているものだが、ヴェールはその実例といえる。
キャリアの最終章では、引退してバーモントの農場で平穏な生活を送っていた62歳のとき、再び請われて現役に復帰、アメリカ電話電信会社(AT&T)の立て直しを果たした。
成功への階段
セオドア・ニュートン・ヴェールは1845年、オハイオ州キャロル郡で生まれた。クエーカー教徒の家系の父とオランダ人の母が、一時期この土地に住んでいたときの子どもだった。2年後の47年に一家はニュージャージーに戻る。そこで1866年まで暮らしたあと、アイオワの農場に移転している。
農家の暮らしになじめず、冒険がしたくてうずうずしていた若いヴェールは西を目指し、ユニオンパシフィック鉄道の貨車に乗務する通信士の職を見つける。ヴェールのおじアルフレッドは、それより以前に、モールス信号を考案したサムエル・F・B・モールスに融資して、電信技術の開発を支援していた。電信技術はヴェール一家の遺伝子に組み込まれていたようだ。
じっとしていられないヴェールは貨車の仕事から、鉄道による郵便輸送へと移る。才能が輝きを放ち始めたのはこのときだ。鉄道による郵便輸送は、列車内にまったく仕分けシステムのない混乱状態そのもので、主要都市向け以外の手紙は輸送経路が定まらず、輸送する列車同士の連絡もシステム化されていなかった。ヴェールはこの混乱状態の収拾に着手する。鉄道の運行時刻表と列車間の連絡を徹底的に調べ上げ、最短の経路を割り出すことにした。こうして地域内での効率的輸送を示した郵便業務の手引き書ができあがった。
やがて、こうしたヴェールの仕事ぶりにアメリカ政府が注目するようになり、彼をワシントンに召喚した。地域の郵便配達業務を刷新できるなら、全国規模でもできるはずだと考えたからだ。ヴェールはこの仕事に着手し、たちまち郵便業務担当の次席監督官から監督官に昇進した。その仕事は、鉄道会社の既得権益との衝突が避けられなかったため難航した。国全体の配達業務を見直した結果、鉄道会社の中には収益に影響を受けるところもあった。それでもヴェールは鉄道会社の政治的な動きを抑え込み、その初志を貫徹した。