阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝など阪急東宝グループを創業した小林一三(1873年1月3日 ~1957年1月25日)。出身地は山梨県で、1892年に慶應義塾大学を卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)を経て大阪に赴任したのは1907年のことである。
大阪では阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の経営に携わり、鉄道を起点とした都市開発と、沿線住民の需要を満たす小売業、レジャー、エンターテインメントなどに事業の幅を広げた。
その小林は、“地元”の阪急沿線だけでなく、1934年1月に東京・日比谷に東京宝塚劇場を開場した。その後、近隣の有楽座、日本劇場、帝国劇場を手中に収め、1937年には東宝映画を設立。日比谷一帯を巨大な劇場街に発展させた。
このインタビューは、東京宝塚劇場のオープン直後のもの。「私は丸の内の神聖な場所に、各種の官衙(かんが)あり銀行会社あり、そこに出入りするサラリーマンのために、高尚な娯楽地帯をつくる」と意気込みを述べている。
また、新時代の大衆はいかなる娯楽機関を必要とするか、理想の国民劇の姿とは? 歌舞伎劇は滅びるか──などについて、持論を展開していく。
一方、当時からのライバルは、浅草を手中に収める松竹だ。「この浅草はどうかといえば、あまりに下等である」と、インタビューの冒頭から歯に衣着せぬ物言いで挑発する。「少し低級過ぎて、相当の家庭の人、相当の教養がある人には浅草は食い足りない。そこで私は、東京のどこか適当の場所を選び、その所に一つ、比較的高尚な娯楽地帯をつくるということは、これからの世の中では必要な事業ではないだろうか」と言うのである。
インタビュー中に登場する面々も、実にきらびやかだ。日本の産業の礎を築いた実業家たちが、“君付け”で登場し、彼らとの交渉裏話などが披露される。現代の雑誌やネット記事ではまず見られないほどの“超ロングインタビュー”だが、ぜひ、最後まで読み進めていっていただきたい(文中かっこ内は編集部注)。(敬称略)
(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
東京には明るく、清く、
美しい歓楽境がない
──東京には相当多くの劇場があるのに、どうしてまた、あなたが幾つも建てられたのですか。
小林 私が東京に来て感じたことは、東京に私どもの考えているような明るく、清く、美しい歓楽境がないことです。東京で大衆の集まる所は、ご承知の通り浅草よりない。そこへいくと、大阪では道頓堀、千日前、さらにそれが南の方に延びていって楽天地がある。また郊外には、浜寺もあれば、私の方の宝塚もあり、阪神沿線には甲子園があるというふうで、インテリなり、若い人なりの遊びに行く場所が、相当に充実している。東京にはそれに比較すると、もっと大きな都会であるにもかかわらず、わずかに浅草を数えるにすぎない。
もっとも東京には、大阪の持たない、関西の持たない、大きな公園がいくつもある。上野公園にしても、山王公園にしても、また芝公園にしても、欝蒼(うっそう)たる樹木を擁した、いい公園が各所に散在している。しかし、大衆の娯楽という点からいえば、上野公園が不忍池を包容している関係上、いろいろな博覧会をやるとか、美術館があるとかのために、やや大衆の要求を満たしているだけで、娯楽中心の場所は浅草しかない。
しかもこの浅草はどうかといえば、あまりに下等である。と言うと語弊があるが、少し低級過ぎて、相当の家庭の人、相当の教養がある人には浅草は食い足りない。そこで私は、東京のどこか適当の場所を選び、そのところに一つ、比較的高尚な娯楽地帯をつくるということは、これからの世の中では必要な事業ではないだろうか、それにはどこがよかろうかということを、多年考えていたのです。これが第一の理由です。