ホンダ人事抗争71年史、「研究所vs営業」に潜む文民統治の弊害

技術の本田宗一郎と経営の藤澤武夫。絶妙な経営統治で急成長したホンダも71歳。組織の官僚化が進んだと言われて久しい。伝統的に強い研究所、米販売法人が弱体化し、近年では中国閥が勢力を増している。それでも、社内の対立構造はそう単純ではなく、研究所vs営業を影で牛耳る“派閥”があった。特集「ホンダの死闘 四輪赤字」(全6回)の#1では、ホンダ71年の社内抗争史から今を読み解く。(ダイヤモンド編集部副編集長 浅島亮子)

日産ゴーンをモデルにした伊東前社長

 2015年2月に起きたホンダの社長交代劇は、二重の意味で電撃的だった。

「フィット」のリコール5回という不祥事を前にしても、7代目の伊東孝紳・ホンダ社長(当時。現相談役)は直前まで続投に意欲を示していたフシがある。まず、交代時期がイレギュラーだった。

 次に、同年6月付で社長に指名された後継者が、大本命と目されていた松本宜之・常務執行役員(当時。6月に専務取締役兼本田技術研究所社長を退任)ではなくて、八郷隆弘・常務執行役員(当時。現社長)だったことだ。

 松本氏は、初代「フィット」の開発責任者を務めるなど花形エンジニアとして知られる有名人で、若くして社長候補の呼び声が高かった。

 異例のバトンタッチにどのような政治力学が働いたのか。結果的に「2人の大物ホンダOBが伊東さんに引導を渡すことになった」(ホンダ幹部)という説が濃厚だ。