そのOBとは――。一人は、エンジン開発出身の4代目社長だった川本信彦氏。社長時代には、バブル崩壊で停滞する国内事業を立て直すため、「ワイガヤ(役職や職域を超えてワイワイガヤガヤ大部屋で話し合うホンダの文化)」を廃止したり、本田技術研究所にTQM(総合的品質管理)の導入で不具合を撲滅したりと、大胆な改革を行使した人物。そのワンマンぶりから「ヒトラー」との異名をとった研究所の親分である。

 もう一人は、ホンダの保守本流とも言うべき米販売法人アメリカン・ホンダ・モーター(通称アメホン)の社長、本社副社長を歴任した雨宮高一氏である。1990年代のアメホンの勢いは凄まじく、「ホンダ本体はアメホンの子会社」と本社社員が自嘲気味に言うほどだった。雨宮氏は、アメホン主体の営業部門の親分だ。

 2人は“花の38年組”と今も語り継がれる1963年(昭和38年)入社。同期には、川本氏と社長のいすを争った元副社長の入交昭一郎氏や、5代目社長の吉野浩行氏も含まれていた。

 研究所と営業の親分が、リコール問題にかこつけて、伊東体制にノーを突きつけたのはなぜだったのか。それを理解するには、伊東体制の説明が必要だろう。

 2008年のリーマンショック後に社長に登板した伊東氏は、「再建請負人として経営者の評価が右肩上がりだったカルロス・ゴーン元日産自動車会長を意識しているようだった。いや、ゴーン氏に対抗して勝とうとしているようにも見えた」(別のホンダ幹部)。

 ゴーン氏の経営手法はシンプルだ。規模拡大路線をまい進し、販売台数を積み上げて、規模のメリットを享受することで効率化を進めるというものだ。「短期的利益を求めるアナリストの高評価を目指しているようにも見えた」(同)。

 そうしたゴーン的経営手法がホンダの中にダイレクトに表れたのが、12年に示された「世界6極体制」であり、「世界販売600万台」という拡大路線だった。ホンダが対外的に数値目標を掲げること自体、珍しかった。

“米国一本足打法”には陰りが見えていたので、グローバルな地域拡大は自然の流れではあった。だが、ここで伊東氏が講じた二つの方策が後に尾を引くことになる。

 一つ目は、軽自動車で先んじて始めていた「開発と生産、購買の一括企画」の手法を世界6極でも取り入れることだ。独フォルクスワーゲンの一括企画「MQB」の影響も多分に受けていた。

 新機種開発は日本の研究所主体で行われてきたが、一気に6極に広がったことで開発リソースが足りず研究所が疲弊してしまう。その結果、効率化も部品共有化も甘く、地域ごとの車の派生モデルが激増。一体感のない「ミニホンダ」が六つ生まれることになってしまった。

 二つ目は、地域本部長制を導入し、6極の戦略を決める責任者を営業出身者にしたことだ。そこに秘められた意図について、ある本田技術研究所のエンジニアは「ポストで優遇することで営業部門を懐柔し、伊東さんがグリップを握る体制を築こうとした」と打ち明ける。

 さすがに、営業優遇の施策には、研究所の反発が大きかった。