空腹を抱えて日本に憧れた少年時代

 1929(昭和4)年4月。重光は半年遅れで三同公立普通学校(小学校)に入学する。普通学校は朝鮮総督府が朝鮮全土で設立を進めており、この学校も前年に開校し、入学・新学期は9月からだった。だが、日本式の男女共学制に対する当時の朝鮮人社会の反発は根強かった。重光はこのように語っている。

「父は僕を小学校に行かせないつもりだった。学校に行かせるのは子どもを見捨てることと思って行かせなかった。特に、同級生の女の子のために息子がだめになるという理由を挙げていた。ただ、幼い僕でも、実は貧乏でお金がもったいないから学校に行かせないのだということを知っていた」(*2)

 このときは、両班の家系出身ながら、不動産業や金融業など手広く事業をしていた伯父、鎮杰が教育の必要性を辛鎮洙に強く訴えたことで何とか入学を認めてもらう。この伯父は、のちに父親が費用負担を拒否した修学旅行費や、農業実習学校の学費までをも負担してくれた恩人で、移築された生家の近くに一緒に建てた集会所に建立された大きな石碑には伯父の社会的功績を讃える文章が刻まれている。

 自宅から学校までは1里(4km)もあった。しかも、自宅はダム湖に沈むような山あいの集落にあったため、峠を越え、3つの小川を越えての徒歩通学であった。重光は通学の苦労をこう語っている。

「雨がたくさん降ってきたら、両親が小川のほとりで待っていてくれた。私が川に流されるのではないかと心配したからだ。飛び石の上まで水が溢れると、冬でもゴム長靴と足袋を脱いで渡らなければならなかった。とても寒くて足が震えた。確かにただ事ではなかった」

 通学に苦労した4年間だが、重光にとっては楽しい思い出も多かったようだ。日本で教育を受ける憧れが強まったのもこの頃だ。弟の一人によれば、当時の重光は日本の大衆娯楽雑誌『キング』や日本語の小説を好んで読み、将来の夢は作家になることだったという。重光は、李氏朝鮮時代の気風がまだ残り、儒教思想が幅を利かしていた当時の封建的な社会に反発を抱いていたようだ。

「漢文だけを教えるような寺子屋(書院=儒教を教える朝鮮の私設学校)の教育は非現実的だ。寺子屋では歴史や地理のようなものは教えない。歴史と地理を教えてこそ、世の中を学ぶことができる。その時は小学校だけを出た人でも、漢文だけ勉強した老人たちより、世の中の理にさらに明るかった」

 ただし、重光の夢に対する父親の姿勢は厳しかったようだ、重光はこうも語っている。

「普通学校(小学校)に通う時、日本に行って勉強すると決心した。お父さんに『日本に行くつもりだ』と告げたら、『馬鹿かお前は。死ぬつもりか。絶対だめだ』とおっしゃった」

 日韓併合は1910(明治43)年のことだったが、その後の、1919(大正8)年からの三一運動(日本からの独立運動)に対する弾圧や1923(大正12)年の関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件などが辛鎮洙の脳裏に刻み込まれていたのかもしれない。

 山間部の三同公立普通学校での授業は4年生までで、5年生になる際、重光は街中にある彦陽公立普通学校に編入した。自宅から片道10kmもあったが、バス代など払えるべくもない重光は毎日往復20kmを歩いた。子どもの足なら往復4時間以上かかる。朝6時には家を出て、夕方戻ると、今度は牛の世話が待っている。それが終わると、6人に増えていた弟や妹の世話だ。幼馴染みで遠い親戚でもある辛石峯(シン・ソクボン)はそんな重光の姿を今も忘れられない。

「ある日、大きいあめ玉を噛み切って、いちいち弟たちに分けてあげるのを見たことがある」

 当時の学校は、田舎の分校から町中の本校に通うくらい学校の雰囲気に差があり、重光はいじめにあう。そのことは成績にも如実に表れた。5年生の査定簿(生活記録簿)には、「授業時間に横を見る。怠慢ではないが、飽きっぽい性格ではないか」と記されていた。数時間の通学に、牛の世話と子守りに追われるような貧しい生活をしていれば、授業に集中できないのも無理のないことだ。

 ただし、貧しいのは重光だけではなかった。60人いた重光の同級生の3人に1人は弁当を持ってくることができなかった。昼休みになると、弁当のない級友は自宅に戻ったが、重光の自宅は遠すぎた。重光は韓国誌のインタビューで、空腹感を感じないようにする秘訣を語ったことがある。

「おなかがすいたら食べもののことだけを考えるのです。どうすればおなかがいっぱいになるかという工夫ばかりすることになるから、正常な思考が不可能になるのです」

 そんな貧乏に追われる重光の集落にも年に1度、飴屋が来たという。古いゴム靴やすり切れた麻布の衣服でも、持っていけば飴1本と交換してくれた。「大人になって飴を好き放題食べられたらいいな」と願ったという重光の夢が、製菓メーカーで成功を収めた遠因というのは牽強付会が過ぎるだろうか。

 この後、重光は伯父に学費を支援してもらい、蔚山公立農業実修学校へと進学する。ただし、実修学校における2年間の「学籍簿」(成績表)の記録は惨憺たるもので、のちに財閥グループを率いるカリスマ経営者のものとは思えないような評価が並んでいる。

 性格は「鈍重」と記され、学習態度は1年目の「熱心」が2年目は「普通」に評価が下がっている。成績も1年目が34人中28番目で、2年目が26人中18番目と、どちらも後から数えた方が早い。特に、実習の成績があまり良くなく、農業を学ぶことへの意欲はあまり感じられない結果である。

 そんな重光の当時の唯一の楽しみは思索にふけることだった。後年、経営者になってからも、自室にこもって考えにふけることが多かったが、これは少年時代から受け継がれた習慣なのだろう。

 厳しい見方をすれば、苦労しながら勉学を重ねた結果、農業を学ぶ道へは進めたものの、小説を読んで物思いにふけるのが好きな文学少年は農業には身が入らず、宙ぶらりんの状態になってしまったといったところだろうか。

 しかしである。農業実修学校を卒業し、「羊技術指導員」の見習いという仕事に就いた重光だが、連載第2回で見たとおり、勤務先の種羊場長の大津隆紹氏と出会ったことで、人生を大きく変える1941(昭和16)年の渡日に踏み出すことになった(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。 羊飼いから財閥総帥への転身。それは当時の夢多き重光でも、描くことはなかった破天荒な夢だっただろう。

(*2)晩年のインタビューより