朴大統領の意向で幻となった石油化学事業への参入

「在日本大韓民国民団(民団)では毎年、3機関長(団長、議長、監察委員長)と常任顧問など20〜30人で大統領への表敬訪問をやっています。重光さんもこうした訪問団に同行し、朴大統領とのパイプを太くしていったのではないかと思います」

 民団の呂健二(ヨ・ゴンイ)団長はそう語る。それまでは商工会などの経済団体の顧問だけを引き受けてきた重光だが、66(昭和41)年6月6日、民団中央本部の新役員として顧問に選出された。朴大統領とも直接話せる存在として、在日韓国人のみならず、韓国政界での知名度も高くなっていた。

 重光に朴を最初に紹介したのが、当時は大統領府秘書室長を務めていた李厚洛(イ・フラク)だった。重光と同郷で、同じ蔚山(ウルサン)の農業学校を卒業している。朴と共にクーデターに参加し、のちには駐日大使やKCIA部長も務めている。重光との関係を知る弟(四男)の重光宣浩はこう振り返る。

「彼は非常に頭のいい男で、KCIA部長の頃、韓国では『泣く子も黙る李厚洛』と恐れられた実力者でした。(重光が)李承晩大統領については『あいつは経済も知らない。とんでもない野郎だ』と憤っていましたし、警戒もしていたようです。私は何度も韓国進出を勧めましたが、当時関心はあまりなかった。朴大統領時代になると、三星(サムスン)や現代(ヒョンデ)がどんどん台頭、気が付いたら桁違いの会社になっていた。何とかしなければならないということで『目が覚めた』わけです」

 政権中枢とのつながりができてから、韓国投資の案件が重光にも寄せられるようになる。すでに韓国政府は国交回復後に外資導入法を宣布し、在日韓国人の韓国投資を外国人投資として優遇することを保証する「外資導入施行規則」を制定し、在日の資金取り込みに躍起だったという背景もある。

 例えば民団顧問になったのと同じ66(昭和41)年の6月に締め切られた石油精製所計画。前述した「5カ年計画」に続く「第2次5カ年計画(67〈昭和42〉~71〈昭和46〉年)」で政府は石油化学産業や鉄鋼産業などの基幹産業を立ち上げる壮大なプロジェクトを掲げていた。この事業計画申請には、現在の韓国の財閥4位のLG(当時は樂喜〈ラキ〉化学)や9位のハンファ(韓火=旧・韓国火薬)に肩を並べて、ロッテグループが手を挙げていた。蛇足になるが、当時は、財閥が「5カ年計画」に参加したのではなく、「5カ年計画」に参加した中小企業が朴政権の“優遇”で財閥にのし上がったというのが韓国の歴史である。

 重光は石油化学事業への参入について、「最初、韓国政府では僕に製油工場を建ててくれと言った」(*2) と明かしている。そのために、三井物産から融資を受けて韓国に東邦(ドンバン)石油を設立し、石油精製プラント建設の準備を進めていた。ところが事業申請締切から数カ月後に李厚洛から思いがけない要請を受ける。

「朴大統領が製鉄所建設を計画しているが、韓国には技術も資本もない。日本の政界にも影響力がある重光に手伝ってほしい」

 大統領の希望とあれば、石油化学事業は諦めざるをえなかった。結局、石油精製所計画はLGグループが獲得し、完成した製油所は現在は財閥7位のGSグループ(LGから分離)の傘下にある。もし、この事業を獲得できていれば、ロッテは、韓国で化学最大手のLGやエネルギー大手のGSのような、重光が祖国貢献のための悲願としていた重工業メーカーへの転身が実現できていたかも知れない。

*2 『月刊朝鮮』2001年1月号