シマノは「自転車業界のインテル」といわれる。PCのプロセッサーの大半がインテル製であるように、ギアやブレーキ、レバーといった自転車の中核部品の多くがシマノ製だからである。事実、世界各国でつくられている自転車の部品メーカーとして高いシェアを誇る、押しも押されもせぬリーディングカンパニーである。

 インテルに例えられるのには、もう一つ理由がある。それは、東京大学教授の藤本隆宏氏が言う「中インテグラル・外モジュラー」、つまりシマノの自転車部品は模倣することが極めて難しく、その一方で、あらゆる自転車に装着できるように個々の部品が標準化されているからである。 

 同様のビジネスモデルを実現しているものに、信越化学工業の半導体シリコン、村田製作所のセラミックコンデンサーなどがある。そこには、利益が累乗的に増えていく「収穫逓増の法則」が働いており、しかも高品質ゆえにプレミアム価格が設定できる。言うまでもなく利益率は高い。これこそ日本製造業が目指すべきモデルの一つといえるだろう。

 ここで、シマノについて簡単に紹介しておこう。創業者の島野庄三郎氏が、大阪・堺にある12坪の小さな町工場に旋盤1台で鉄工所を起こしたのは、1921年のことだった。当初から自転車部品で最も技術力を要するフリーホイール(ペダルを回し続けずとも慣性力で進むようにワンウェイクラッチ機構が組み込まれた部品)で「日本一の品質」を目指していた。

 爾来100年。その軌跡はけっして平坦なものではなく、数多の山や谷を乗り越えてきた道だった。庄三郎氏は、長男・尚三氏(2代目社長)、次男・敬三氏(3代目社長)、三男・喜三氏(4代目社長)の3人の息子たちに恵まれ、時代の節目ごとに、それぞれが近代経営、技術開発、国際展開という課題を担い、シマノならではの高付加価値のものづくりを貫いてきた。そのものづくり哲学は、尚三氏の長男・容三氏に受け継がれ、「美しい製品は美しい工場から生まれる」という信念へと結晶していった。

 本インタビューでは、現社長である容三氏(注1)に、3兄弟の経営から何を学んだのか、またシマノの成長のブースターとなった6つのキーワードについて、ものづくりにおける強いこだわりとともに、その精髄(エッセンス)を聞いた。さらには、次の100年への転換点となる現在地とデジタル技術の進化を踏まえたうえで、デジタルの先にあるもの、すなわち新しいアナログ世界への挑戦についても語ってもらった。それは、これからの日本企業のあり方を示唆すると同時に、忘れ物を再発見することでもある。

注1)当インタビューは、容三氏が会長兼CEOへの就任(2021年3月30日付)以前の「社長在任中」に行ったものです。

美しい製品は
美しい工場から生まれる

編集部(以下青文字):先ほど本社工場を一通り見学したところ、まるでミュージアムのように美しい工場でした。こうしたこだわりは、シマノのものづくりと相通じるもののように感じました。

“Beyond Digital”  シマノが拓く新境地シマノ 代表取締役会長兼CEO 島野容三YOZO SHIMANO 1948年生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業後、1974年にシマノ入社。下関工場長、営業企画部長、釣具事業部長などを経て、1995年に代表取締役専務、2001年に5代目・代表取締役社長に就任。営業企画部長時代には、アメリカ西海岸で生まれたMTB(マウンテンバイク)ブームにいち早く着目し、他社に先駆けてMTB専用部品の開発に着手。みずから陣頭指揮を執り、1982年にMTBシステム・コンポーネンツ発売へと導いた。シマノはこのMTBブランドの確立によって世界での評価を一気に高め、その後「自転車業界のインテル」といわれるまでに成長。世界で圧倒的な競争力を有する、日本のものづくりのトップランナー的存在となった。また近年では、サイクルツーリズムなどによる地域活性化支援をはじめ、自転車文化の創造活動にも積極的に取り組んでいる。2021年3月30日、20年務めた社長を退任し、代表取締役会長兼CEOに就任。

島野(以下略):美しい製品というのは、単に外観が優れているだけではなく、品質も含め、すべてが美しくなければなりません。そして、こうした美しい製品は美しい工場からしか生まれない──。これが、私のものづくり哲学にほかなりません。

 工場にこだわるのも、それゆえです。見た目が美しいだけではいけません。たとえば、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの「5S」という基本が現場で共有され、一人ひとりが自律的に実践している。こうした外側も内側も美しい工場をつくろうと、2014年に旧工場を建て直しました。

 旧工場は父の代に建てられ、半世紀かけて増改築を繰り返してきましたが、必ずしも効率的とはいえない工程がかなりありました。そこで、生産性を上げるだけでなく、従業員にもお客様にも、シマノのものづくりの哲学をわかってもらいたいと考えて、ミュージアム型の工場を設計、刷新したわけです。

 本社工場のある堺は、昔から鉄砲や刃物の生産拠点であり、商人が自治する街として海外交易の拠点でもありました。シマノが世界で評価されるグローバル企業になれたのは、そうした歴史を持つ街から生まれたことが影響しているのでしょうか。

 おっしゃるように、シマノという会社は、堺にあったからこそ生まれたといえます。そこで堺の歴史を簡単にご紹介しましょう。

 実は、堺という街は、古墳の街でもあります。日本一大きい仁徳天皇陵をはじめ、40基以上の古墳が残っています。これら古墳を建造する土木機材をつくるために、日本全国だけでなく、朝鮮半島などの海外からも集められた職人たちが定着したことで鍛冶屋集落ができ、やがて刀や包丁づくりなど金属加工の拠点へと発展しました。その後、鉄砲の量産も始まり、それを堺商人たちが戦国大名たちに売ることで、堺に富が集積し、日本最大の商業都市にして自治都市となったのです。海外との交易がさかんに行われ、茶の湯など独自の文化も育まれていきました。しかし時代の変化の中で、鉄砲鍛冶は鉄工所や自転車製造に転業していきました。

 そうした歴史に形づくられた堺の地に、シマノは誕生しました。町工場で徒弟奉公していた祖父(庄三郎氏)が一念発起して独立し、旋盤1台で小さな鉄工所を起こしたことが始まりです。「日本一品質の高いものをつくりたい」という祖父の熱い思いから、当時自転車部品の中で一番難しいといわれていたフリーホイールの生産に挑戦しました。

 今年(2021年)は、それからちょうど100年を迎えます。時代は変わっても堺という街に軸足を置き、品質で勝負するという創業の志を忘れることなく、従業員と一体になって、全身全霊打ち込んできました。ですから、本社を堺から移す気はさらさらありません。この街はシマノのDNAそのものなのです。

 ちなみに現在、当社の自転車部品の売上げの97%が海外からですが、堺にいて何の不自由も感じません。近くにある関西国際空港から、世界中どこへでも飛んでいけますから。そして、本社と工場が道路一つを隔てて隣接していることも、我々の大きな強みです。私も従業員も本社と工場を行ったり来たりしながら、一緒にものづくりに向き合うことができる。この環境をけっして手離してはいけないと思っています。