30年あまり、生きづらい世のなかで我慢を重ね、心を悩ませ続けてきた。そのあいだのつまずきによって、自分のつたない運命を悟るにいたった。
そこで、50歳の春に出家し、世間との交わりを避けるようにした。妻子はいないので、捨てがたい人間関係もない。自分には官位や俸禄はないので、執着もない。こうして、大原山の山中でひっそりと暮らすようになった。
◇晩年の小さな住処
60歳になってはかない命も消えかかるころ、晩年の住まいをつくることになった。生涯の中ごろの家にくらべると、その大きさは百分の一にもおよばない。年齢は一年ごとに増えていくが、住まいは移るたびに狭くなっていく。
土台を組み、簡単な屋根を上にふいて、材木の継ぎ目はかけがねで留めた。もし気に入らないことがあったら、簡単に引っ越せるようにするためだ。これなら、簡単に建て直すことができる。
住まいの南には懸樋(かけい)があり、岩を組んで水を溜めておける。近くには林があり、薪(たきぎ)にする枝を拾いあつめることができる。谷には草木が生い茂っているが、西側はひらけているので、西方浄土に思いをはせられる。
春には、極楽往生のさいに阿弥陀如来一行が乗ってあらわれるという紫雲のように、藤波が美しく照り映える。
夏のホトトギスの声を聞くたびに、その鳥と死後の山路の道案内を約束する。
秋に聞こえるひぐらし蝉の鳴き声は、はかない現世を悲しむかのようだ。
冬のふり積もった雪が消えてゆくようすは、人の罪障にたとえられるだろう。
◇自分の心を楽しませる生活
もし念仏に身が入らず、読経(どきょう)にも気が乗らなければ、気ままに休み、怠ける。それを邪魔する人もいないし、恥ずかしいと思う相手もいない。ひとりですごしていれば、口ゆえの罪を犯すこともない。