高校の国語教科書が変わる

 2022年度から施行される高等学校学習指導要領によれば、たとえば国語の授業は、従来通りに文学中心に学ぶ授業と実用文中心に学ぶ授業に分かれることになる。それに対応して、文学を中心とした教科書と実用文を多く盛り込んだ教科書がつくられる。

 このような教育改革に対しては、懸念を示す専門家も少なくない。なぜこのような改革が必要になったかと言えば、難解な文学作品どころか、ちょっとした通知事項などの実用文さえもきちんと理解できない子どもたちが増えているからなのだ。

 いわゆる読解力が十分に身につかないままに義務教育を終えている。そのような生徒には、格調の高い小説や評論を学ばせている場合ではない、何よりも必要なのは実用文を学ばせることだ。そうでないと社会に出てから困ることになる。そう言われれば、確かにそうかもしれない。実際、実用文を理解できないためにさまざまなトラブルが生じている。

 そこで、国語の授業で自治体の広報や契約書などといった実用文の読み方を学ばせようということになったわけだ。従来の国語の授業を受けて育った者からしたら、実用文の読み方を学ぶ国語の授業など想像しがたいのだが、それを必要とする生徒たちが目の前にたくさんいるという現実がある。

 こうした動きは、この先中学や小学校にも及んでいくものと予想される。このような教育改革によって何が起こるかと言えば、子どもたちの学力の二極化である。

すでに幼少期に差が付いている?

 元々知的好奇心が旺盛で、本をよく読み、読解力を身に付けている生徒は、実用文の読み方など改めて学ぶ必要がない。したがって、文学作品中心の教科書で学ぶことになるのだろうし、仮に授業が実用文中心となったとしても、そんなものでは知的好奇心を満たせないため、個人的に小説や評論を読んで教養を身に付けていくだろう。

 一方、元々知的好奇心が乏しい生徒は、日頃から本をあまり読まず、読解力が乏しいため、国語の授業で実用文の読み方を学ぶことになる。授業でもほとんど文学を扱わないとなれば、文学作品には生涯ほとんど触れることのない人生を送ることになるだろう。

 それによって、文学や評論に親しんで想像力や思考力を磨き、また豊かな知恵を身に付けた教養人と、実用文以外はほとんど読むことのない非教養人の二極化が進んでいくに違いない。

 欧米は階級社会であり、元々そうした二極化を当然としてきた。しかし平等な扱いを好む日本人は、そのような知的階層形成を納得して受け入れることができるだろうか。