ゴルフ大全#2Photo:ZUMA Press/AFLO

松山英樹が日本人初の偉業を成し遂げた。2011年の初出場から10回目の挑戦で、ついにマスターズを制覇したのである。特集『ゴルフ大全 ビジネス×人脈×カネ』(全12回)の#2では、頂点に立つまでの10年、その知られざる格闘の日々を、松山をよく知るゴルフジャーナリストの舩越園子氏がつづる。栄冠の陰には2度の悔し涙があった。

「表彰式では僕が勝った」
同学年の石川遼にあからさまな対抗心

 10年前。松山英樹が大学生のアマチュアにしてマスターズ・トーナメントに初出場し、見事、ローアマ※1に輝いたあのとき以降、彼を言い表す日本語として「鈍感力」という言葉が多用された時期があった。

 それは、当時の日本ゴルフ界を席巻していた国民的スター、石川遼との対比でもあったのだと思う。明るい笑顔を輝かせながら饒舌に語る派手でアクティブな石川が「動」なら、黙々とプレーする松山は「静」であり、その場の空気を読んで上手に対応する石川が「器用」なら、細かいことに惑わされることなくデンと構える、いい意味での「鈍感」であり、その「鈍感力」こそが松山の持ち味だと評されていた。

 しかし、2011年4月のマスターズで私が初めて目にした松山には、むしろ豊かな感受性が感じられた。喜怒哀楽にも富むエモーショナルな大学生だと私には思えた。

 オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで初めて臨んだ会見では、欧米メディアからの質問の大半が前月に起こったばかりの東日本大震災に関する事柄に集中した。被災地となった「第二の故郷」仙台や東北エリアへの複雑な思いを胸に抱いていた松山は、会見場の重苦しい空気を肌で感じ取り、険しい表情で壇上に座っていた。

 どんな言葉で、どう答えたらいいのか。全てが初めての経験故に、対処の仕方が分からないという様子の松山は、困惑の色を露骨に表情で示していた。

 しかし、会見が終わり、ひとたびコースに出ると、彼の表情は一変し、「会見が一番緊張する!」と口走るやいなや、弾けるような笑顔を見せ、意気揚々と球を打ち始めた。

 夢にまで見たマスターズでこれから4日間、戦うのだという現実を五感で味わっていた松山からは、その喜びが溢れ出ていた。

「アーメンコーナー※2って、何が難しいのかな?」

 ちょっぴり得意げな顔で、そう言ってのけた松山は、いざ試合が始まると、その言葉通り、オーガスタ・ナショナルの難所であるアーメンコーナーをものともしない堂々たるプレーぶりを披露した。

 3日目のラウンド後、「この調子で最終日もがんばれば、ローアマも狙えるね」と声を掛けたら、松山は「全然気にしてません」と声を荒らげた。彼が思わず、むっとした表情を見せた理由は、ローアマというものの栄誉を彼自身がまだ知らなかったからだが、もう一つ「僕はアマチュアの中で一番になりたいのではなく、トッププロたちの中でどこまでやれるかを知りたい」と思っていたからだ。

 最終日に27位タイに食い込み、いざローアマに輝いた松山は、前日とは一転して喜びを露わにした。そして、日本人として初めてマスターズの表彰式に臨み、笑顔を輝かせながら、こう言ったのだ。

「順位ではリョウに負けたけど、表彰式では僕が勝った」

松山英樹まつやま・ひでき/1992年愛媛県松山市生まれ。4歳でゴルフを始める。石川遼とは同学年のライバル。2011年に初挑戦したマスターズで27位タイに入るが、翌12年は54位タイに終わる。13年プロに転向し4勝を挙げて賞金王。14年から米ツアーに主戦場を移し、17年全米オープンで2位。21年通算10アンダーでマスターズ制覇、賞金207万ドルを獲得した。写真は東北福祉大在学中の2011年、マスターズに出場しローアマに輝いた時の松山 Photo:REUTERS/AFLO

 そう、あのときの松山は、同い年の石川にあからさまに対抗心を燃やし、遭遇した出来事に敏感に反応して、笑ったり怒ったり得意げになったりもする無邪気な大学生だった。

 しかし、その一方で、松山の視線はすでに気高き世界の頂点を見据えていた。

 そうやって遠くを見据えながらも、すぐ目の前の目標を見つめ、クリアしようと努力する、いわば「遠近法」的な歩み方は、松山が東北福祉大学ゴルフ部の阿部靖彦監督から教えられたものだった。

※1 ローアマチュア。プロの大会に出場したアマチュア選手のうち、最も優秀な成績を上げた選手に与えられる称号
※2 マスターズが行われるオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブの11番、12番、13番ホールの総称。不規則な風が多くの選手を翻弄する