尾身会長vs菅政権、問題の本質は
「専門家を都合よく使おうとすること」

 今回の政府と尾身会長の間の問題は、政府の側が、尾身会長の専門性と権威を自分たちに都合のいい内容ばかりに使おうとしていることにある。

 政府の行うことが正しいと専門家が判断する限りでは、この関係性は専門家自身にとっても問題はない。

 しかし、今回の東京オリンピックの感染症リスクは、尾身氏の専門家としての知見から看過できないものなのだろう。

 あるいは、筆者の邪推の可能性もあるが、尾身会長は、東京オリンピックの開催は不可避と判断した上で、開催後の感染問題の深刻化の可能性を踏まえて「専門家として事前に警告した」という事跡を残しておきたいのかもしれない。

 この場合、尾身氏の対社会的な保身行為だともいえる。しかし、万一そうした理由があるとしても、リスクを警告するという行為自体は国民一般に対する「専門家」の行動として適切である。リスクを知っていて何も言わずにいるよりは、いかなる形であっても情報を発信する方がずっといい。

 情報の受け手である国民としては、尾身氏の発言の背景が上記のいずれであるとしても、「尾身氏の目から見て、東京オリンピック開催には深刻なリスクがある」と受け取ることができる。

 オリンピックを開催したい政府としては、尾身会長に「オリンピックを安全に開催することは十分可能だ」と言ってもらえると都合がよかったのだろうが、そうはならなかった。

「それでも開催する」という判断なら、判断の責任者が国民に納得のいく説明をする必要がある。尾身氏の専門性を隠れみのにして、説明の代用にしようとすることは虫が良すぎる。