近内近内悠太さん Photo by Nobushiro Masaki

コロナ禍は、私たちの価値観に大きな影響を与えた。スーパーでレジ打ちをしている人、商品棚を補充している人、ごみ収集をしている人――生活基盤を支えてくれているにもかかわらず、あまり意識されることがなかった、彼ら「エッセンシャルワーカー」に意識が向いたのは変化の一つだ。しかし、コロナ禍が長引き、その「気づき」の感動が薄れてきている。今回は、第29回山本七平賞・奨励賞を受賞した著書『世界は贈与でできている』を執筆した教育者・哲学研究者の近内悠太さんに、この「気づき」を今後の確かな糧にするためのヒントを聞いた。(聞き手/ライター 正木伸城)

「贈与」とは人から人へ
贈る/贈られる連鎖

――近内さんの著作『世界は贈与でできている』の「贈与」ですが、あらためて「贈与」について教えてください。

 贈与というと贈り物をイメージする人も多いでしょう。私は本書で、「サンタクロース」や「鶴の恩返し」をわかりやすい例として紹介しました。贈与は、「手渡されたときにお礼を言いたくなってしまうものすべて」と「その移動」と意味づけできます。贈与には、贈り物そのものだけでなく「贈る/贈られる」という行為も含まれます。

――贈与が論じられるとき、マルセル・モースの『贈与論』がしばしば引き合いに出されますね。

 文化人類学や哲学の見地からすると、いま述べた私の定義では少々足りないかもしれません。私は、贈与とは、他人から手渡されて、受け取ったその場では返礼させてもらえず、どうしたらこの感謝を伝えられるだろうという「負い目」が受け手に残ってしまうもの――をコンセプトにしています。

 プレゼントをもらったときに「うれしい!」という気持ちとともに、「お返ししなければ」という気持ちがわく。この「負い目」は、他の誰かに「手渡す=贈与する」ことによってのみ解消される。そして、新たに手渡された人がまたしても「負い目」を感じて次の誰かに感謝を伝えようとする。そんなふうに連鎖していくのが贈与のイメージです。

――たとえば、足をケガした学生が、電車の中で席を譲ってもらったとします。それも、贈与の一形態ですね。学生はケガが治ったあと、席を譲れる側になるわけですが、過去に席を譲ってもらったという「負い目」がどこかに残っている。

 そう、その学生は、仮にご老人が電車に乗ってきたら、積極的に席を譲るかもしれない。自分が手渡されたことを、今度は他の人に手渡すのが、贈与の連鎖です。

 贈与は、家族や友人、恋人など大切な人との人間関係において、よく働きます。先日、子どもができた知人が、「赤ちゃんって、めちゃくちゃ贈与してくれるよね」と言っていました。母となった彼女はこう語るんです。「だって、赤ちゃんって、ずっと私にニコニコしてくれるんだもん。目が合えば、『えっ、なに?』って思わせてくれる。お世話してるって感覚は私にはなくて、ただただ、赤ちゃんが四六時中、私に『くれる』んだよね」と。これは、子から親への贈与です。これとは反対のベクトル、親から子への贈与も、子育ての中でたくさん生まれます。

――そんな「贈る/贈られる」という関係にお金が介在すれば、贈与ではなくサービスになってしまいます。近内さんの著作では、それを「交換」と呼んでいます。