日本政府は、人権問題について国連からさまざまな勧告を受けるなど、批判されてきた(本連載第219回)。人権意識が高い人は、時に政権批判につながる言動を行うことがある。それを危険視したのだ。

 もちろん、そんなことを露骨に行うことはできないが、安倍晋三・菅義偉政権や、森喜朗前会長を中心とする大会組織委員会の中枢に「忖度」する「空気」があり、自然にそういう流れになったことは、容易に想像できる。

 例えば、「日本学術会議」の会員人事で、6人の研究者が政府から任命拒否された問題がある(第255回)。政府は、任命拒否の理由の開示を拒否しているが、6人の「リベラル」な姿勢を、政府が「危険人物視」して外したのだと、私は思う。

 安倍氏が首相に復帰して以降、「お友達」を守り、異論を持つ人や反対勢力を露骨に排除する動きが強くなった。また、「桜を見る会」のように、芸能人までもが嬉々として首相の「お友達」になろうとする動きが広がった(第233回)。

 五輪クリエイターの人選の背景には、そういう世の中の流れがあったと思う。

ピクトグラムのガッツポーズの残像、
「多様性」と「調和」はどこに?

 しかし、今回の五輪開会式の発注は、「多様性」と「調和」がテーマである。今回の開会式のチーム編成がたとえ「お友達」人事で、人権問題に高い意識を持っていないことが選ばれた理由だったとしても、発注されたものには、応えなければならない。

 彼らが「納品」した五輪開会式は、日本の「ものづくり」のアピールはあった。入場行進では、世界中で大人気の日本のゲーム音楽が使われて沸いた。

 NHK教育テレビの番組「デザインあ」を思わせる「動くピクトグラム」のパフォーマンスは、彼らの持ち味を出せた部分だっただろう。世界のメディアにも多く取り上げられ、日本らしい細かい芸に驚嘆の声が上がった。

 だが、「多様性」と「調和」はいったいどこにあったのだろう。