みずほ 退場宣告#6Photo:JIJI

相次ぐシステム障害により行政処分を受け、金融庁からガバナンス不全を痛烈に批判されたみずほフィナンシャルグループ。特集『みずほ 退場宣告』(全8回)の#6では、前身の旧3行が統合を発表し、持ち株会社としてみずほホールディングスを設立した1年後まで時間を巻き戻す。2001年秋、まだ1度目の大規模システム障害も起きていない頃のことだが、巨艦みずほはすでに制御不能に陥っていた。起死回生のため、「経営陣9人の総辞任」という切り札を出したものの、戦略なきみずほの再生には当時から懐疑的な目が向けられていた。経営統合という手段が目的に転じてしまったみずほから学ぶことは、現在においても多い。

「週刊ダイヤモンド」2001年12月8日号の緊急決算特集『銀行壊滅:PART1』(ダイヤモンド編集部 古木謙太郎、田中 博、藤井 一)を基に再編集。肩書や数値などの情報は雑誌掲載時のもの。

有力副社長までもろとも「引責」
経営陣9人が総辞任した20年前の一大事

 毎週火曜日と木曜日の2回、「みずほホールディングス(HD)」の3人のCEO(最高経営責任者)――西村正雄・日本興業銀行頭取、山本惠朗・富士銀行頭取、杉田力之・第一勧業銀行頭取――は、統合に関わる意思決定のため、東京・丸の内の本社で顔を合わせる。

 2001年11月22日木曜日、いつものように集まった頭取たちは、グループ首脳陣の刷新について最終的な詰めを行った。3連休を挟んだ後の26日月曜日には決算発表を控えており、新人事構想を打ち出すに当たっては、まさにギリギリのタイミング。トップ人事は最後の最後までもつれた。

 それもそのはずで、週末に判明した人事の中身は、3人のCEOを含むみずほHD9人の経営陣が全員辞任するという劇的なものだった。

 9人の中には、統合さえなければ旧行の次期頭取確実といわれた奥本洋三副社長(前興銀副頭取)、小倉利之副社長(前富士副頭取)に加えて、総会屋事件直後の緊急事態に杉田頭取と二人三脚で一勧の再生を担ってきた西之原敏州副社長(一勧副頭取を兼任)といった押しも押されもせぬ実力者たちの名前がズラリと並ぶ。

 3人のCEOにしてみれば、総退陣はおいそれと決断できるものではなかった。

 とりわけ、次期社長として小倉副社長の昇格を望んでいたといわれる富士の山本頭取は、かなり逡巡した様子だ。

 なぜなら、02年3月には3人のCEOのうち、みずほHDの会長である西村興銀頭取、山本頭取が退任、社長を務める杉田一勧頭取への一本化が既定路線となっていた。ところが、01年2月末に杉田頭取が急きょ入院。ゴールデンウイーク明けには復帰したが、病み上がりでもあり、3人のトップの間では「次期社長は山本頭取」という合意が、いったんは出来上がっていたとみられる。

 同時に、02年4月の3行分割・再統合により誕生する二つの子会社銀行の頭取ポストの割り振りも決まっていたようだ。大企業取引専門の「みずほコーポレート銀行」が興銀、中小企業・個人顧客に特化する「みずほ銀行」が一勧。持ち株会社のCEOが山本頭取なので、三つのポストを3行で分け合う人事構想は固まっていた。

 一度は決まったCEOポストを他行に取られれば、富士としての立場がない。山本頭取は、この3行ポストの「割り振り」にこだわったのだろう。そこで、自身の退任を決意した11月に入ってからは、富士の行内で声望が高かった小倉副社長を次期社長として強く推したといわれている。

 しかし、みずほHDの副社長の中では2番目に年かさの小倉氏が次期社長となれば、6人いる副社長のほとんどは留任することになる。そんな悠長なことが許される状況にはなかった。

「トップが腹をくくれないのならば、みずほは四大銀行の競争から退場するしかない」(3行幹部)
 
 2000年に3行の持ち株会社としてみずほHDを設立し、世界最大の銀行グループにのし上がったはずのみずほは、いったいなぜそこまで追い込まれていたのか。次ページでは、HD設立からわずか1年強で制御不能となった、巨艦みずほの戦略なき「トップ総退陣」の深層を追う。