事業部の業績を
急拡大した井ノ口被告

 田中被告が権限を高め周囲を腹心で固める中、側近中の側近とされたのが事業部を牛耳っていた井ノ口被告だ。

 もともと事業部は学生向けの保険代理店など生活支援サービスを目的に、日大が全額出資して10年に設立された。当初、売り上げは年間数億円程度だったが、井ノ口被告は大学運営とは関係ない自動販売機サービスや飲食店関連などに事業を拡大。その頃から業者にリベートを要求しているとの噂(うわさ)がささやかれていた。

 一方、売り上げを伸ばした手腕を田中被告に評価される形で17年、理事に就任。その後、事業部は陰で「アンタッチャブル」「伏魔殿」などと揶揄(やゆ)され、日大からの20年度事業委託費は100億円を超えるまでに膨れ上がっていった。

 その井ノ口被告は日大アメリカンフットボール部「フェニックス」の主将として、大学日本一になった経験を持つ。フェニックスといえば、あの「タックル問題」をご記憶の方も多いだろう。

 井ノ口被告はコーチだった18年、問題が起きた際に加害学生と父親を呼び出し「監督の関与はなかった(と言え)」「(同意しなければ)日大が総力を挙げてつぶしにいく」と強要したことが明るみに出て辞任。

 しかし、検察が監督と学生を不起訴にした19年、事業部の取締役として大学に戻り、20年には理事に復帰していた。「過去の問題はお咎(とが)めなし」と呼び戻したのは、ほかでもない田中被告とされる。