籔本被告は昨年8月以降、工事で業者選定の謝礼や田中被告の理事長再任祝いとして、計7500万円を渡したと具体的に供述。田中被告も逮捕当初は「知らない」「すべて税理士に任せていた」などと否認していたが、後に認める供述に転じたという(理由は後述)。

 田中、井ノ口両被告を巡っては、過去にも数々の疑惑が取り沙汰されてきた。その多くが事業部を経由したもので、警視庁捜査2課が今回のような日大関連施設の工事代金が業者からキックバックされたとする疑惑などを捜査。19年頃には、練馬区と日大光が丘病院の運営を巡る訴訟で練馬区から支払われた約56億円が、日大の帳簿から消えた問題も浮上していた。

暴力団との交際を公言し
意に沿わない幹部を威嚇

 それでは、田中被告とはどんな人物なのか。

 1946年、青森県金木町(現・五所川原市)の農家に、5人きょうだいの三男として出生。高校で相撲を始め頭角を現して日大に進学、3年生で学生横綱に。本人の手記によると、1学年下に大相撲元横綱の輪島氏がいたが、大学幹部に「プロには輪島を行かす。おまえは大学に残れ」と言われたと述懐。当時、輪島氏と勝負は五分だったと主張している。

 卒業後、その通り職員として残り、予算や人事権、スポーツ推薦枠の差配など、日大が擁する運動部に強大な権限を持つ「保健体育審議会」の仕事に関わることで発言力と影響力を強めていった。

 99年に理事、02年には常務理事に就任。08年に理事長となり、その後、本来は総長を大学トップとする制度変更を強行。暴力団関係者との付き合いを公言し、意に沿わない幹部にその関係をちらつかせて脅し、逆らう人物は容赦なく切り捨てたとされる。

 日大関係者は「ある幹部が運営方針に異を唱えたら、いつのまにか東京郊外にある高校のグラウンドキーパーに左遷されていた」「萎縮させて支配する構図。自分に従う人物だけを登用する」「理事長の前に立つときは、みんな直立不動」などと声をひそめる。

 一時期、大学のCMで各学部の紹介に混じって「相撲部」が同列に扱われていたのは、卒業生の間から「大学幹部が田中被告に忖度(そんたく)したのだろう」と失笑が漏れていた。