そして、この観音の本質を「慈悲の権化」とする。人間心奥の慈悲の願望、人が心に持つ慈悲にすがりたいという思いが、その思いの出口として、人体の形に結晶したものだというのである。

 さらに和辻は、中宮寺の観音様の御姿を前にして、あえて抑制していた信仰の領域に突入してしまう。

「わたくしたちはただうっとりとしてながめた。心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たさせている。まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである」

 精神性が高く、能力がある者には、見えないものが見えるのである。実は、和辻が本書で述べた仏像の鑑賞経験は、私個人の鑑賞経験と完全に重なる。もちろん和辻のように深いところまでは見えないし、巧みな表現をすることもできないが、百済観音からは神秘的でありながらしなやかで強い超人性を、聖観音からは偉大さに加えて女性的な崇高さを、そして、中宮寺の如意輪観音からは、時空を超えた途方もなく大きい慈悲と愛を感じる(よって個人的には弥勒菩薩だと信じて疑っていない)。

なぜこれほど素晴らしい
仏像が生まれてきたのか

 さて、このような美的世界を現実のものとした白鳳時代。なぜ、これほどの素晴らしい仏像が生まれてきたのだろうか。現在の日本で、この時代の技巧と精神性の高みに匹敵するような美的創造物に出合うことは難しい。科学技術は発展したかもしれないが、手技と精神性が追いついていかない。

 もちろん、当時仏教によって国家統治を図ろうとする天皇をはじめとする有力者の手厚い庇護があり、その結果第一級の人材が仏師を目指し、また彼らが切磋琢磨したということはその原因の1つであろう。しかし、それだけではここまでの高みにまでは登れないのではないだろうか。