グラウンドの打撃練習の球音が止まった。ふとフィールドに目をやると、OBコーチがメンバーを集めてフォームの指導を始めていた。その手前に妙な光景が目に入った。外野で控えの4年生たちが肘をついて寝そべっている。彼らは守備練習を兼ねて球拾いをしていた。球が飛んでこないから一休み、という体である。

 投手の技術指導を担った身としては越権行為と思いつつも、「ふざけるな!」と怒鳴りつけた。ベンチ入りへの熱い気持ちがあれば、外野からダッシュして輪に加わるべきだ。指導が終われば全速力で持ち場へ戻る。それが早稲田の野球部ではないか。それをグラウンドに寝転んで傍観しているとは……。

 声を荒らげた後には、嘆きの色が胸に広がった。

 早稲田の野球部は一枚岩だった。自分が学生だったころにはレギュラーも控えもなかった。ベンチ入りできない部員こそがレギュラー陣を鼓舞するような練習で、それこそ球拾いにまで張りつめた空気があった。また、1999年から2004年まで指揮をとった野村徹監督時代のすさまじい緊張感。たまたま母校を訪れた小宮山は「やはり早稲田の野球部だ」と大いにうなずいたものだった。

 昔はよかったというわけではない。早稲田大野球部が決して失ってはいけない、譲ることのできない「一球入魂」の精神である。飛田穂洲から石井連藏、野村徹を経て受け継がれてきた気高い精神性。それを取り戻すことこそが使命と小宮山は考えた。

 小宮山がじかに触れた石井連藏監督の野球への圧倒的な情熱。アマチュア野球界をリードする大いなるプライド。その謦咳(けいがい)に接して、背筋の伸びない野球部員などいなかった。

早稲田の野球部がメジャーのキャンプで練習
成し遂げたのは日米野球人の「友情」

 猛練習で知られた「鬼の連藏」は練習グラウンドの外でも厳しかった。早稲田大野球部員としての精神性を求めた。数多あるエピソードから、1994年に早稲田大野球部が9度目の渡米を果たしたときのことを引く。

 早稲田はロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプへ招待された。メジャーリーグの球団が日本のアマチュアチームを招き入れる――画期的な出来事である。