その実現には、石井連藏、オーナーのピーター・オマリー※1、そしてOBのアイク生原※2の「友情」があった。

 アイク生原は、石井監督の第1次政権時に猛練習を受けた。卒業後は実業団でプレーし、亜細亜大監督を務める。その後に単身渡米して下積みを重ね、ドジャースの要職に就いて日米交流に大きく貢献した傑物である。しかし、この2年前に55歳の若さで世を去っていた。

 まず、石井監督はロス在住のOB・友永順平に連絡した。

「ロスでキャンプをしたいんだ。地元の大学と練習試合を組めないか」

 友永は小宮山と同期。石井監督の勧めで南カリフォルニア大学に留学した。当時、石井監督が全日本大学野球連盟理事の職にあり、留学中に日米野球の手伝いをすることになった。日米の連盟の折衝に尽くし、大会が米国開催のときには日本チームに帯同し、日本開催ではアメリカチームをエスコートする。現在も日米野球交流のキーマンとして活躍している。

 石井監督はこう続けた。

「そして、1時間でいいから、ドジャース球場で練習をさせてもらえないだろうか。オマリー会長にお願いできないものかな」

 部員たちに最高の経験をさせたい。石井の親心を伝えるべく、友永はすぐにピーター・オマリーに会った。するとオマリー会長は「それならば、いっそのことベロビーチに来るといい。天国のアイク生原も喜ぶだろう」と笑顔で答えたのだった。

 オマリー会長とアイク生原は27年にわたる深い親交があった。アイク生原は学生時代、初代監督の飛田穂洲より「いい選手になりたければ、私生活を大事にすることですよ」との薫陶を受けた。グラウンドでの猛練習と普段の生活態度。どこに身を置こうとも「一球入魂」の精神で事に当たる。これこそが早稲田野球の精神である。

 異国の地で言葉もおぼつかない中、選手たちの用具磨きからスタートして野球を学び直そうとしたアイク生原の熱意に、ピーター・オマリーは瞠目(どうもく)した。やがて二人は親友と呼ばれる間柄となる。オマリーも「一球入魂」に感じ入ったのだった。

 92年、アイク生原が胃がんを患ったとき、会長の差配でUCLAの大学病院に入院した。毎晩の泊まり込みの看病に友永も加わっていた。オマリー会長はシーズン中にもかかわらず試合観戦を切り上げて毎日見舞いに訪れた。彼が病室に姿を見せたときには、寄り添っていた家族たちが席を外すのが暗黙の了解となっていたという。

「これほどの固い友情で結ばれた二人を、私はいまだに見たことがない」

 こう友永は言う。オマリー会長がここまでアイク生原を大事にしたのは、彼が渡米後にいかに過ごしてきたかに尽きる。人の何倍もの努力をして信頼を勝ち取ったのである。

 アイク生原はオマリー家の墓に眠る。ピーター・オマリー会長の父、ウォルター・オマリーと母・キャサリンの隣。オマリー会長が最後に入るために空けておいた場所だった。

早大野球部・小宮山悟新監督の苦悩、一球入魂精神を喚起する「我慢作戦」アイク生原のお墓(写真右) 

 友永からの申し出を快諾したオマリー会長はこう続けた。  

「アイクが尊敬してやまない石井連藏が率いる早稲田が来るならば、すべてドジャースが面倒を見ようじゃないか」

※1 ピーター・オマリー(1937~)
 1970年、父・ウォルターの後を受けてドジャースの会長に就く。家族的な球団経営の一方で、野球の国際化を進め、中国や旧ソ連の球場建設を推進、中南米諸国での普及に貢献した。親日家としても知られ、日本野球界に知己多数。野茂英雄がドジャースに入団したときのオーナーとして一般にも広く知られるようになった。チームは「働きやすい企業・全米ベスト100」に2度選ばれるものの、98年、経営困難を理由に球団を売却した。2015年には外国人叙勲で旭日中綬章を受章。「野球を通じた日米友好親善の促進および我が国野球界の発展に寄与」が功労の概要である。

※2 アイク生原(生原昭宏)(1937~1992)
 福岡・田川高校から早稲田大へ進学、野球部では捕手、下級生の教育係。亜細亜大野球部監督を務めた後、「メジャーリーグで、自分のやってきた野球を見つめ直したい」との一心で、鈴木惣太郎(読売ジャイアンツ顧問)の紹介で1965年単身渡米。ロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からスタートする。後にドジャースのオーナーとなるピーター・オマリーとは同い年、長年行動を共にした間柄で、82年よりオーナーの補佐兼国際担当。プロ野球の巨人、中日のベロビーチキャンプの実現や日米野球開催など、幅広い日米野球交流の中心的役割を果たした。野球をオリンピックの正式種目にするために世界中を奔走した。野球留学生に親身に世話をするなど、多くの野球人に慕われるも、55歳の若さで永眠。2002年に野球殿堂入りを果たした。