――JR西日本は転換後の交通機関にも関わるのか。

 当社は鉄道が主なので、例えばLRTは不得意です。得意分野を活かしたほうがよいでしょう。ローカル線の沿線には鉄道に並行してバスが運行されていることが多く、少ない利用者を両方で取り合っています。(JRが参入すれば)それをさらに食い合うことになるので、議論が必要です。

――地域と合意が得られない場合は廃線に踏み切るのか。

 法律上は1年以上前に届出をすれば廃止できますが、合意が得られない場合にそのような手続きをするという前提はありません。当社としてはきちんと地域と対話し、最適な交通体系をともに実現したいと考えており、それに向けて全力で取り組みます。

日本のローカル線の議論は
いよいよ避けられない状況に

 今回のインタビューで感じたことは、日本の鉄道が100年来抱えてきた問題から、いよいよ目をそらせなくなってきているということだ。

 19世紀から20世紀初めまで鉄道は唯一の高速かつ大量輸送が可能な交通機関であった。特に「地方」において鉄道は「中央」とのつながりを示すものであり、近代化そのものを意味していた。

 世界に目を向けるとアメリカでは1910年代、ヨーロッパでも1930年代からモータリゼーションが始まり、鉄道は衰退の時代に入るが、日本では1960年代まで待たねばならず、その後も長くシンボルとしての鉄道が希求され続けた。こうした地方の声を背景に「我田引鉄」を推し進めた政友会内閣は1922年に鉄道敷設法を改正し、1万キロ以上に及ぶローカル線の建設を推進する方針が確立される。

 しかし当時からこれを危惧していた人もいた。鉄道院(国有鉄道)で運輸局長を務めた木下淑夫は1923年に、鉄道の本分は大量輸送であり、輸送量を見込めない地方に莫大な資本を投下しても回収できないとして、小規模な輸送需要に柔軟に対応可能で、線路建設よりもはるかに少ない費用で整備できる自動車輸送を拡大すべきだ、と問題提起している。

 戦後、公共企業体としての国鉄が発足した後も鉄道敷設法に基づくローカル線建設は推進されるが、国鉄の経営が悪化してペースダウンすると、ローカル線を中心とした新線建設の受け皿として1964年に鉄道建設公団(鉄道公団)が設立された。