創業90年超にも及ぶ長い歴史を持つ丸井Gで、経営トップとして代々実権を握ってきたのは青井家だ。創業家にはアナウンサーや実業家などが名を連ねる、まさに「華麗なる一族」である。だが、本業の有力な後継者は見当たらず、創業家支配に対する疑問の声も上がる。特集『丸井 レッドカード』(全13回)の#7では、同族経営体制が抱える矛盾を明らかにする。(ダイヤモンド編集部 山本興陽)
創業から91年、丸井Gの栄枯盛衰
歴代社長は創業家「青井家」から3人だけ
「月賦を、月賦といわず、クレジットの丸井といわせるところに、新経営の片リンが光っている。(中略)“月賦でものが買えるのは、信用ある市民の誇り”という、新しい月賦イメージづくりに貢献してきた」――。(原文ママ)
これは「週刊ダイヤモンド」1963(昭和38)年臨時増刊経営問題特集号で、丸井グループ(G)の創業者、青井忠治氏を評した一節だ。「激動期に棹さす日本の経営者」をテーマにしたこの記事では、忠治氏が業界団体の全国月賦百貨店組合連合会長として活躍していることや、社員の信頼を一身に集めていることを紹介した上で、「金融機関の信用は絶大なものがあり、これが丸井の今日を築いたカゲの力になっている」と指摘している。
丸井Gの創業は戦前にさかのぼる。04年に富山県小杉町(現射水市)で誕生した忠治氏は、幼くして左目の失明や両親との死別を経験した苦労人だ。22年に富山県工芸学校(現高岡工芸高校)を卒業すると、単身上京して月賦販売店の丸二商会に就職した。
31年にはのれん分けを受け、家具の月賦販売店(後の丸井)を創業する。丸井Gの歴史はここから始まることになる。忠治氏は月賦を「クレジット」と呼び、60年に日本初のクレジットカードを発行する。その後も、丸井は高度経済成長の勢いに乗って業容を拡大。65年には東証1部上場を果たしたのだ。
72年、経営のバトンは忠治氏の長男である忠雄氏へと渡された。忠雄氏は、忠治氏がトップの時代から経営に深く携わり、一部からは「1.5代目社長」(丸井OB)とも評された。
丸井の知名度を飛躍的に上げた革命的な「赤いカード」の店頭即時発行システムを75年に導入したのも忠雄氏だ。
バブル期には「小売りの丸井」は若者を中心に熱烈な支持を集め、その勢いはとどまるところを知らなかった。91年には30期連続の増収増益という金字塔も打ち立てた。
現社長の浩氏が3代目のトップに就いたのは2005年だ。既に祖業の小売りは郊外型のショッピングモールやECなどに押され衰退期に入っていた。代わりに丸井Gの大黒柱となったのが、06年に発行した「エポスカード」を中心とした金融事業である。
創業から91年を迎えた丸井G。創業家体制は、丸井を一大グループに育て上げ、小売りの衰退もうまく乗り越えようとしている。しかし、一族経営体制には終焉の足音が近づきつつある。次ページ以降では、丸井Gが抱える「後継者問題」や、創業家にもかかわらず少数株主であることで生じる矛盾などを明らかにしていく。