NHK連続テレビ小説(朝ドラ)の中で、21世紀を迎えてから最高視聴率23・5%を記録した『あさが来た』は、広岡浅子という明治の女性実業家がモデルである。彼女は、「東に尾張屋銀行の峰島喜代子、西に鈴木商店の鈴木よね、大同生命の広岡浅子あり」といわれた明治・大正の3女傑の一人として知られる。
まず、浅子が実業家として覚醒するまでを振り返ってみたい。1849年10月18日(嘉永2年9月3日)、三井家十一家の出水家(のちに小石川家)6代当主・三井高益の四女として生まれ、幼い頃から、茶の湯、生け花、琴の稽古といった花嫁修業よりも、四書五経など学問に興味があった。しかし、「女に教育は不要」という当時の偏見に阻まれ、浅子の願いは退けられる。17歳の時、2歳の時に決められた許婿、大坂の加島屋の次男・広岡信五郎と結婚する。しかし、夫の信五郎は典型的な大店の御曹司で、店のことはいっさい手代に任せ切りだった。浅子は、こうした商家の風習を疑問に思うばかりか、危機感を覚え、漢籍のみならず、簿記や算術などを独学で学び始める。
結婚して3年後、浅子の危惧は的中する。明治新政府は、商人たちに献金を命じたり、江戸時代からの貨幣制度を改めたりと、商家の経営を圧迫した。加島屋も例外ではなく、しかも当主(第8代広岡久右衛門正饒)の死去、廃藩置県による大名貸債権の大幅棒引きが追い打ちをかけた。この窮地に八面六臂の活躍を見せたのが、まだ20歳の浅子であった。浅子は、こうしてビジネスの世界へ足を踏み入れていく。ただし、当時の法律では、夫と死別した場合など一部の例外を除き、女性が家長になることはできなかったため、浅子は信五郎と義弟で第9代広岡久右衛門となった正秋の後ろに控えていた。しかし、実質的には当主であった。
事業基盤が一つできると、多角化へとステージを上げていくのがセオリーだが、浅子も例外ではなかった。1884(明治17)年頃、信五郎の名の下、筑豊の潤野炭鉱を買収し、開発に着手する。しかし、先進的な機械を導入したにもかかわらず、十分な生産量が得られず、「周りの炭鉱が産出しているのに、ここだけ出ないという道理はない」と、炭鉱に単身乗り込み、護身用のピストルを懐に忍ばせつつ、坑夫らと生活をともにしながら陣頭指揮を執った。
炭鉱事業が軌道に乗り出すと、浅子は、1888(明治21)年に満を持して加島銀行を立ち上げ、その翌年には、尼崎紡績(現ユニチカ)を、1892(明治25)年には日本綿花(現双日)の設立に参画する。なお潤野炭鉱は、浅子の見立て通り、優良炭鉱へと生まれ変わり、1899(明治32)年に政府に売却され、官営製鉄所二瀬炭鉱となり、その石炭は八幡製鉄所で使われた。
その後、浅子の名をいまに語り継ぐ大同生命保険設立の物語が始まる。浄土真宗がつくった真宗生命という保険会社からの経営支援の要請が始まりで、当主の正秋が浄土真宗の門徒総代(信者代表)だったので、無下に断ることもできず、その再建に手を貸すことにした。社名変更や3社合併などを経て、真宗生命は大同生命として生まれ変わる。
こうした実業家・広岡浅子の半生を例えて言うと、「ターンアラウンドマネジャー」、すなわち再建・再生のリーダーといえるだろう。実際、加島屋や真宗生命の立て直しをはじめ、潤野炭鉱へのてこ入れと売却、尼崎紡績と日本綿花からの撤退など、事業へのロマンというよりも、現実主義と冷徹な判断に基づいて意思決定を下している。
最後にトリビアを一つ。『あさが来た』では、五代友厚が五代才助という名で登場し、陰になり日向になり主人公の白岡あさをサポートしていたが、ドラマで描かれたような密な交流があったかどうかは定かではない。
構成・まとめ|岩崎卓也 表紙イラストレーション|ピョートル・レスニアック
謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、大同生命保険コーポレートコミュニケーション部にご協力いただきました。