ロシアの戦術に見られる「一貫性」

 この観点から眺めると、ロシア側の戦術も理解できる。目前のウクライナ軍や市民の抵抗を物理的に破砕――虐殺行為はその典型であり、戦略的に悪手でしかないのに、目前の反乱の可能性を恐れるという戦術的理由で処刑した――し、ウクライナ政府と国民の心を折り、領土を手に入れ西側の影響力を完全に排除するのであれば、人道性も戦略性もないが現在のロシア軍の行動は一貫性がある。

 ウクライナ国土と市民が灰燼(かいじん)に帰そうが、ただ領土を物理的に確保し、西側の影響力を完全排除したいだけ――しかもウクライナのナショナリズムが高揚している状況で――であれば、クラウゼヴィッツが指摘したように、もはや手段を選ばずに物理的に抵抗力を破砕するしかない。西側の経済制裁が決定的な影響をもたらす前に決着をつけねばならないという時間的制約があるなら、なおさらだ。

 場合によっては、追い込まれたロシアはポーランドやバルト3国に戦線を拡大する、もしくはその可能性をちらつかせて経済封鎖や西側の支援を切り崩そうとする場合もあるだろう。81年前に日本がじり貧よりも、一縷(いちる)の希望としての戦争を希求したように。戦術的勝利の追求と引き換えに政治的勝利が消えうせればうせるほど、そうした脅迫とエスカレートに頼らざるを得ないのだから。

 しかし、仮にそれが純軍事的に成功したとしてもロシアが手に入れるのは「戦争における勝利(戦略的勝利)」の可能性を食いつぶした「軍事的勝利(戦術的勝利)」であり、まさしく古代ギリシアの故事「ピュロスの勝利」だ。失敗すれば悲惨な敗北になりかねない。

 しかも、ロシア側は戦術的勝利を追求するあまりか、作戦レベルや戦略レベルでの指導が薄かった。ロシア側が、4月9日になってようやく各方面軍司令官を統率する司令官を任命したと報じられたのも、これを裏打ちしている。要するに、戦略レベルやそれと重なる作戦レベルの軍事作戦を誰も指導していなかったのだ。