だから筆者がもしその場にいたら、「ひどいことを言う先生だな」と思いつつ笑っていたかもしれない。むしろ、講師がテキストを棒読みで朗読するような人でなく、情緒たっぷりに解説してくれる伊東氏であったことに感謝していた可能性すらある。
 
 しかし筆者は実際にはその場におらず、後日ネット記事で読んで知り、「これはよくよく悪質だから炎上しても仕方ない」と嘆息した。その場にいたか不在かでここまで大きく意識に差が出る点には留意しておきたい。メディアから情報を受け取る際は、この心構えをしておくことで、より核心に迫った判断ができるようになるはずである。
 
 結局「シャブ漬け発言」は、教室の雰囲気にのまれることなく、己の正義に従って「不快」を「不快」と感じることのできた受講者が告発に至ったのであった。

森喜朗氏の失言との共通点とは?
言葉のあり方が問われる情報時代

「シャブ漬け発言」、およびその後の早稲田大・吉野家の一連の対応を見るに、森喜朗元オリパラ組織委員会・会長の辞任劇を思い出させるものがある。両者には共通点がある。
 
 まず、失言をした両氏の話術はおそらく高かった、という点である。伊東氏は前述の通り多方面で活躍するビジネスパーソン、一方森氏は“人たらし”としても知られ、密室において相手の心をつかむジョークの質は随一であったと聞く。
 
 もうひとつの共通点は、「彼らの従来通りのやり方でやっていたら、炎上した」である。森氏の女性蔑視発言は、その世代の人にとってはごく当たり前だった価値観に基づいたものであり、時代が進んだことでそれが世論から許されなくなっていった。
 
 伊東氏はというと、「今日もちょっと攻めた表現をまじえつつ、面白おかしくタメになる話をしよう」くらいの意識だったのかもしれないが、これもジェンダーに関する意識が時代に追いついておらず、また「密室で終わるはず」とタカをくくっていたはずの講義内容が、告発によって世間の知られるところとなった。
 
 密室では許されていた(かもしれない)発言は、今やSNSによって瞬時に外界とつながり、外界で公的な発言として受け止められる。「発言にいちいち気を使う窮屈な時代になった」「風通しと日当たりのいい、住みよい時代」などさまざまな見方はあろうが、これが令和4年の情報事情であり、現実である。
 
 今後攻めたジョークがどのような場で用いられるべきかについてだが(そもそも「シャブ漬け発言」がジョークに値するかという議論もあろうが)、これはおよそ吟味されていない限りは使わない方が無難……という方向になっていくであろう。

 筆者も攻めた表現は好きなのでよく用いていたが、多くは時と場合を選ぶものであり、聞き手の誰かを傷つけるか不快にさせるだけの、なくてもいい毒である。
 
 失言が瞬く間に拡散される時代である。原則的にプロからアマまで発信者は自分が発する予定の言葉について吟味するべきだ。一方でネットでは言葉がぞんざいに扱われるシーンも多いので、今一度言葉の使い方、使われ方を改めて考えた方がいいのではないか、と思わされた。
 
 話がだいぶ広がったが、「シャブ漬け発言」はそれくらいの大きな問題提起にもなった。これからの時代の言葉の行方、そして吉野家の行方に注目である。