人命より社会インフラ
政府や国民に根付いている意識

 日本では新型コロナウイルス感染症は感染症法上の「2類相当」という扱いにしたことで当初、大きな病院や公立病院の現場は阿鼻叫喚の地獄と化した。症状が悪化した患者まで受け入れてくれる病院が見つからず、「たらい回し」にされて亡くなってしまうなんて悲劇も起きた。

 しかしその一方、個人経営のクリニックなどのいわゆる「町医者」の多くは、「地域医療を守るという使命がある」ということから、コロナ患者を受け入れることは少なかった。中には、外出を控えるムードから診療も激減して、閑古鳥が鳴くようなクリニックもあった。

 つまり、感染拡大で命の危険にさらされていた医療従事者や患者があふれていた一方で、地域医療は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったのである。

 戦時中の日本の構造と照らし合わせてみると、空から焼夷弾の雨が降る中で、命からがら逃げ惑う人々がいた一方で、地下鉄は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったことと瓜二つだ。

 では、なぜ日本の行政は「人命よりも社会インフラ優先」という方向に流れがちなのか。その謎を解く鍵も実は77年前の戦争にある。

 先ほど鉄道省の局長が、貴族院で地下鉄を避難場所に使わせないということを明言したことを紹介したが、これは何もこの局長が個人の独断で決めているわけではない。国家の「大きな方針」に沿っている。

 日本という国は、国民に「空襲から逃げず、恐れずみんなで消火せよ」と義務付けていた。スローガンや「お願いベース」などではなく、法律に基づいて「強制」していたのだ。