ぶつかった相手は徳川御三家の持ち船

 いろは丸は1860年代に英国で建造された小型蒸気船。慶応2年(1866年)、伊予国(愛媛県)大洲藩(おおずはん)が、龍馬の仲介で同船をオランダ人商人から購入。その翌年3月、海運業務のために使いたいと海援隊側から申し出があり、使用契約を交わす。

 慶応3年4月19日、様々な物資を積み込んだいろは丸は長崎を出港して大坂に向かった。その4日後の23日深夜、瀬戸内海の現在の岡山県笠岡市沖で、右前方から進んできた紀州藩の大型蒸気船・明光丸と衝突事故を起こしてしまう。

 衝突の直前、両船はすぐに回避行動に移っている。いろは丸側は取舵(とりかじ)、つまり左に舵を切った。これで一安心と思った矢先、明光丸側が面舵(おもかじ/右舵)を取ったため、両船は同じ北方向を向くことになり、明光丸の船首がいろは丸の右舷(うげん)に激突。しかも、いったん後退した明光丸が操船を誤り、再びいろは丸にぶつかってしまったのだ。

 この二度の衝突によっていろは丸は大破し自力航行ができなくなった。そこで明光丸にいろは丸を曳航(えいこう)させて鞆の浦(とものうら/広島県福山市)に緊急避難することに。ところが、その途中にいろは丸の船体に海水が流れ込み、ついに沈没してしまった。

 鞆の浦に入った龍馬は、明光丸の船長・高柳致知(たかやなぎむねとも)や、たまたま同船していた紀州藩の勘定奉行・茂田一次郎(しげたかずじろう)らにさっそく事後処理に関して会談を申し入れている。

賠償金総額8万3000両を要求する

 会談の席で龍馬は開口一番、茂田らにこう斬り込んだ。

「万国公法によれば、非は明らかに明光丸側にある。しかも、二度も船体をぶつけてくるなど言語道断の所業である」

 これには茂田らは絶句してしまう。当時、欧米で普及していた「万国公法」のことは日本人の大半はその存在すら知らなかったからだ。龍馬はさらにこう畳みかけた。