「船の購入金額が3万5600両。さらに船内には山内容堂(やまうちようどう)公(土佐藩主)より依頼されて運搬していたミニエー銃400丁や金塊(きんかい)も積んであった。それらの分の賠償金も合わせれば総額8万3000両をもらわなければ、当方は納得しない」

 金額の莫大さに色を失った茂田らは、「自分たちでとても決断できない」の一点張り。こうして会談はいったん物別れに終わったが、その後、紀州藩はついに折れ、龍馬の言い値8万3000両を賠償金として支払うことを渋々承諾する。

 ここで龍馬が紀州藩に説明した、衝突の責任は明光丸側にある、という点について考えてみたい。実は当時に限らず現代でも、国際法上は前方から向かってくる船があった場合、互いに面舵(右舵)を取って衝突を回避するのが鉄則だ。

分け前をもらえなかった龍馬

 それをあのときは、明光丸側が面舵を取ったのに対し、いろは丸側はなぜか取舵(左舵)を取ってしまったのだ。明らかにいろは丸側の操船ミスだった。のちにそのことに気付いた龍馬は、面舵が国際ルールだということを百も承知で、舌先三寸、茂田らを丸め込んでしまったのである。

 賠償金額にしても、まったくおかしなものだった。まず、いろは丸の購入金額だが、龍馬が申し出た3万5600両などとんでもない。実際は3分の1以下の1万両程度だったことがのちに証明されている。

 それから、積み荷。400丁もの鉄砲を龍馬はどこに運ぼうとしていたのか。この時代、幕府の権威が弱体化していたとはいえ、外様大名の土佐藩が大量の鉄砲をどこかに移送しようとしていて、そのことが幕府に知られた場合、土佐藩はタダではすまなかったはずである。しかし、紀州藩側はなぜかそこをつこうとはしなかった。

 最終的に賠償金は8万3000両のうち7万両に減額され、大半が土佐藩に支払われることで落着する。それが決まったのは事故から半年後の慶応3年11月7日のことだった。しかし、龍馬は「分け前」をもらうことはついになかった。なぜなら、8日後の11月15日、京都・近江屋で何者かに暗殺されてしまったからである。